私は書くことによって、散々自分自身と向き合ってきたつもりだ。
しかし、その結果として得られたものがあると同時に、失ったものもあるのかもしれない。
書くことによって、感情は自らに定着する。
主観的に見た自分を、改めて客観的にも見つめ直す。
それにより、自分自身の醜さと向き合うことにもなれば、負の感情が増幅されることもある。
自らに内在する負の感情に対する嫌悪感、
特に女性に対するコンプレックスについては、嫌というほど文章に起こしてきた。
その結果として、一歩踏み出した後の二歩目、
相手の懐に入り込む際の二歩目を躊躇するようになった。
自らと向き合うほどに、恋愛での成果は遠ざかっていく。
どれだけそれを表には出さず、スマートに自らのエゴに身を任せられるか。
恋愛にはそういうスキルが求められているのだ。
求めているものが手に入らない。
いくら努力を積み重ねたところで、望む人生を歩むことができないのであれば本末転倒だ。
何度も書いていることだけれども、私には自らのエゴに身を委ねる身勝手さが必要なのだろう。
「自らの臆病さ」
それを盾にして先に進むためのチャンスを何度も見送ってきた。
「女性からのサイン」
勘違いだったこともあるだろうけれど、何度も何度もそれに気がつかないふりをしてきた。
そうやって相手は私の前から去っていく。
その繰り返しなのだ。
自分とばかり向き合って、相手とは向き合っていない。
自分と向き合うことにばかり時間を費やしているうちに、相手は愛想を尽かしてしまう。
私の「向き合い癖」は、とことん恋愛と相性が悪いのだ。
「書くこと」とは相性がいい。
だからブログは続いていく。
だけれども、このままでいいのかとも思ってしまう。
私はもう少し理性を蔑ろにして、本能に身を委ねた方がいいのかもしれない。
少しずつ解放していく。
「誠実」の定義、
相手の気持ちを慮ることが誠実とは限らない。
人の気持ちというものは、自分でも理解不能なほど複雑怪奇なのだ。
だから、自らの熱量が相手に伝わった結果、
思いもやらぬ心地よさが生み出されることも珍しくない。
熱は伝わる。
なんだかんだで人の気持ちを動かすものは情熱なのだ。
だから、私は私の傾ける情熱のままに、先に進めばいいのだ。
今はそういうフェーズなのかもしれない。
環境は大きく変わった。
思い通りにいかないことはだいぶ増えた。
それでも私は私の信念に殉ずることができるのか。
それを試されているのかもしれない。
環境を自分のものにするべく私は書く。
当面、ブログ執筆の理由はそういうことにしておこう。