「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「書くこと」と「向き合うこと」

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私は書くことによって、散々自分自身と向き合ってきたつもりだ。

しかし、その結果として得られたものがあると同時に、失ったものもあるのかもしれない。

 

書くことによって、感情は自らに定着する。

 

主観的に見た自分を、改めて客観的にも見つめ直す。

それにより、自分自身の醜さと向き合うことにもなれば、負の感情が増幅されることもある。

 

自らに内在する負の感情に対する嫌悪感、

特に女性に対するコンプレックスについては、嫌というほど文章に起こしてきた。

 

その結果として、一歩踏み出した後の二歩目、

相手の懐に入り込む際の二歩目を躊躇するようになった。

 

自らと向き合うほどに、恋愛での成果は遠ざかっていく。

どれだけそれを表には出さず、スマートに自らのエゴに身を任せられるか。

恋愛にはそういうスキルが求められているのだ。

 

求めているものが手に入らない。

 

いくら努力を積み重ねたところで、望む人生を歩むことができないのであれば本末転倒だ。

 

何度も書いていることだけれども、私には自らのエゴに身を委ねる身勝手さが必要なのだろう。

 

「自らの臆病さ」

 

それを盾にして先に進むためのチャンスを何度も見送ってきた。

 

「女性からのサイン」

 

勘違いだったこともあるだろうけれど、何度も何度もそれに気がつかないふりをしてきた。

そうやって相手は私の前から去っていく。

その繰り返しなのだ。

 

自分とばかり向き合って、相手とは向き合っていない。

自分と向き合うことにばかり時間を費やしているうちに、相手は愛想を尽かしてしまう。

私の「向き合い癖」は、とことん恋愛と相性が悪いのだ。

 

「書くこと」とは相性がいい。

だからブログは続いていく。

だけれども、このままでいいのかとも思ってしまう。

 

私はもう少し理性を蔑ろにして、本能に身を委ねた方がいいのかもしれない。

少しずつ解放していく。

 

「誠実」の定義、

 

相手の気持ちを慮ることが誠実とは限らない。

人の気持ちというものは、自分でも理解不能なほど複雑怪奇なのだ。

 

だから、自らの熱量が相手に伝わった結果、

思いもやらぬ心地よさが生み出されることも珍しくない。

 

熱は伝わる。

なんだかんだで人の気持ちを動かすものは情熱なのだ。

 

だから、私は私の傾ける情熱のままに、先に進めばいいのだ。

今はそういうフェーズなのかもしれない。

 

環境は大きく変わった。

思い通りにいかないことはだいぶ増えた。

 

それでも私は私の信念に殉ずることができるのか。

それを試されているのかもしれない。

 

環境を自分のものにするべく私は書く。

当面、ブログ執筆の理由はそういうことにしておこう。