ニット生地で体のラインが強調されるタイプの服。
あの服はずるい。
女性がそれを着ると、胸の大きさが一目でわかるのだ。
意識してか、していないのか。
なんとも無邪気に踊る大きな胸のラインを目の当たりにしてしまうと、多少のことは許せてしまうから不思議だ。
先日、仕事で結構な「やらかし」をした女性がいた。
私も結構な被害を受けて、少し大変な思いをしたけれど、健気に頭を下げる彼女の姿を見て、私の怒りはスッと消えて穏やかになる。
私の視線は、彼女の胸の辺りへと向いてしまう。
「大きいこと」は、一目でわかる。
童顔な見た目とは裏腹に大きく育った胸。
そのギャップにやられてしまった。
一言目には「大変でしたね」と、
私の口からは彼女を気遣う言葉が自然と出ている。
彼女の勝ちである。
こういう経験は少なくない。
私は女性の大きな胸に弱いのだ。
「弱点」と言っても良いかもしれない。
妻も、このニット生地の体のラインがわかるような服を着る時がある。
案の定、胸の大きさがわかる。
前にも書いたが、妻も胸が大きい。
理由は伏せたままで、妻に「その服良いね」と伝えると、嬉しそうに胸の大きさのわかる服を多用するようになった。
ここは、私の勝ちである。
私の「おっぱい好き」は、これから先も変わらないのだろうか。
弱点と言えば弱点だけれども、趣向と言えばそれで済む話でもある。
私が女性に対して、胸の辺りばかりに視線を向けている点は、女性たちからしたら気持ちの悪いことなのだろう。
だけれども、胸の大きな女性が目の前にいたら、胸に視線がいってしまうことは、私には止めることはできないのだから、仕方がない。
胸のラインを見るだけで、私の怒りを鎮めてくれると考えれば、双方にメリットがあるとも言える。
しかし、私のスタンスはこれで良いのだろうか。
これでは、胸の大きな女性は、気持ち悪い視線を送られる対価として、失敗しても許されるというリターンを得ていることになる。
ジェンダーの視点からは許されないことで、フェミニスト界隈の人たちからすれば、大きな憤りを感じるのだろう。
結局のところ、人の欲望に関わるところに対して、いかに規制しようとしたところで、それは叶わないのではないか。
見てしまうものは仕方がないし、許してしまうものは仕方がない。
それも含めて、私という人間であり、
胸の大きな女性からしても、胸の大きなことを含めて、その人なのだ。
私はこれから先も「大きな胸に弱い」という弱点を抱えながら生きていくのだろう。
妻に対しても、いざというときに胸の大きさを武器にされてしまったら、頭が上がらないかもしれない。
それはそれで、夫婦円満につながるかもしれない。
良い方に捉えるしかないな。