先日、面白い記事を見た。
「大学全入時代」とも言える今の教育状況を解決する事、具体的には「大学を間引くこと」で、日本が抱える少子高齢化問題解消の糸口になるというものだ。
確かに今の時代は、「奨学金」という名の借金をしてでも大学に行くことが「是」とされる時代。
それでいて、有名でもない大学を卒業したことに、そこまで価値があるのかと言われれば、実際のところ「就職活動」の時くらいしか役に立たない。
さらに、多くの文系大学はモラトリアムを満喫するための場所と化している。
大学に行って勉学に勤しむ人の方が珍しいくらいだろう。
名の知れた大学であれば、入学することが大変だから、それなりに能力の証明にはなるのだろうけれど、そうでない大学の存在意義は、申し訳ないが「資格」としての機能以外には、ほとんどないのではないか。
大学に通うこと。
「大卒」という名の資格を得るための投資としては、時間の面でも、費用の面でも、あまりにもコスパが悪すぎる。
記事で書かれていたことはこうだ。
基準に満たない大学を潰す。
そうすることで大卒の価値を高めるばかりか、教育にかかる無駄なコストは削減される。
そればかりか、大学に通う4年間を労働に充てることで労働人口を増やすことができる。
確かにその通りだ。
子供一人当たり、大学を卒業させるためにかかる費用は、私立文系でも約400万円ほどとのこと。
それでも、大卒であるだけで、生涯賃金はそれ以上に上がる見込みだから、みんな大学に行くことになる。
まずは、その社会構造にメスを入れる必要があるのだろう。
大学に行くことが当たり前となり、大学に行っていないことが不利となる社会。
「大卒」という名の資格に対する価値を、企業が的確に見定められるようになれば、国全体として社会人一人を育てるまでのコストは下がり、さらに4年間前倒しで労働人口を増やすことができる。
社会構造さえ変わることができるのであれば、
合理的な理論であることに間違いはない。
ここ最近のプロ野球界なんかは、
投手のみならず、野手までも高卒の方が評価が高くなりつつある。
少子高齢化により、「若さ」というものの持つ価値が肥大化しているのだろう。
さらに、今は興味のある分野については、自分で調べて学ぶことのできる時代だ。
真剣に学びたいと思ってもいない学生が、大学で学ぶことのできることなど、高が知れている。
それならば、独学で学んだ知識やスキルを活かして世の中に貢献した方が社会のためにもなる可能性は高い。
その辺りの能力を証明できる機会が増えれば、今は生まれている能力を社会で生かす機会が増えるのではないだろうか。
今は肩書きにこだわり過ぎている。
社会がそこから脱却しない限り、その傾向は変わらないのだろう。
能力を証明する方法が、肩書きだけではなくなれば、大学に行く必要はなくなる。
時代は変わるのだろうか。
いや、日本はきっと、このまま進んでいくのだろう。
時代から取り残されてしまいはしないだろうか。