結論から書くと、「みんなが正解だと思ったら、高級ではないにしても正解なのではないか」
この番組を見ていて、私はそう思った。
そもそも、自分が良いものだと思うものを選択する連続が人生だ。
如何に高価なものであっても、それを自分が良いと思わないのでなければ、それはコスパが悪いということになる。
高級品を選ぶことができずに、バタバタと崩れていく芸能人たち。
冷静に見るとかなりシュールだ。
良いものを見て、良いものを食べてきた人たちでも、高級品とそうではないものの差なんて紙一重。
なんともコスパが悪い。
それならば、高級品など、この世に必要なのだろうか。
誰かが「良い」と判断したから、そこに価値が生まれて、それが価格に跳ね返る。
代替品の性能が上がれば上がるほどに、相対的に高級品の価値は下がっていく。
「格差社会」
ある人は、生活をできないくらいお金に困っているのに、ある人は、価値もわからない高級品に対して湯水の如くお金を費やす。
その先に、それを生業にしている人がいて、それで回る経済がある。
良いものを身につけて、良いものを消費することで、品格が身につくのか。
いや、そうではないだろう。
「自分らしさを常に見失わない強さ」に、気品が生まれるのではないだろうか。
「自分勝手」というわけではない。
謙虚で誠実で、相手の立場に関わらず、相手のことを尊重出来る人。
そういう人に品格は備わるのではないだろうか。
人に「格」なんてものは存在しない。
高級品を見分けることができなかったからなんだ。
そのスキルは、人生にさほど必要ではない。
「誰かが定めた基準」に近い感性を持っているか否か。
このスキルで判断できることは所詮その程度だ。
「基準」なんてものは、時代や環境によって変わっていく。
その時代の多くの人から「良い」と認められるものが、昔と変わらないことは稀だ。
だから、高級なものに常に価値があるとは限らない。
そう考えると、高級品が分かった上で、さらに付加価値を生み出す、温故知新的なスキルがなければ、いくら良いものがわかったところで、そこから先には進まない。
何に対して喜びを感じるのかは人それぞれだ。
それぞれの感性のもとで、好き嫌いを決めていけば良いのではないだろうか。
結局、正解なんてものはない。
どこぞの権威が定めた品格が、個人にとっても正解であるはずがないのだ。
雑多で話がまとまらないな。
書きたいことはそんなところだ。