「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「想いを継ぐ」ということ

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私の実家には、昔から引き継いできたものがある。

親戚の集まりで、そのことについての話を聞く機会があった。

どうやら、うちの祖父母や曾祖父母の代から、続いているもので、

それを続けることが、ある種の「誇り」のようなものでもある。

 

家族の誰かが「社会的な成功」を納めることで、

それが「一家の誇り」のように語られることは多いけれど、

そういうものではなく、代々継承される類の「誇り」

それに対して、率直に「良いな」と思った。

 

そして、それを「誇り」として生きてきた私の先祖に対して、

尊敬の念を抱くとともに、私もその「誇りを継ぐ」ということを意識するようになった。

 

ブログを始めたころは絶望的なところからの始まりだったけれど、

紆余曲折を経て、私にも配偶者ができた。

 

今後、子宝に恵まれることになれば、その子供に自我が芽生えた時、

私は子供に対して、自分の姿を通して、その「誇り」を受け継ぎたいと思われるような振る舞いをすることができるのか。

あまり自信はない。

 

しかし、「継承」というものは、

そのように「受け継ぐ側の主体性」がなければ、

形だけ継承したとしても、やがて廃れていくのだろう。

 

巷では、少し前に、とある宗教を持つ家庭に生まれて、本人の意思に関わらず、信仰を強いられる幼少期を送る「宗教二世」の苦悩がクローズアップされた時期があった。

安倍元首相を亡き者にした、山上容疑者の家庭環境に端を発したものだった。

 

「生きる目的」

 

それをどこに置くかで、人生は如何様にも形を変える。

個人として信仰を持つことについては、その人の自由だから、

とやかく言われるものではない。

 

しかし、それがあまりにも社会から逸脱したような価値観だとすれば、

それを無垢なまま継承した次の世代にとっては、

これから先、その価値観とは違う社会で生きることになる可能性が高いのだから、

大きな苦労の原因となる。

 

「価値観の継承」

 

それを子供に求める親の気持ちは、分からなくはないけれど、

半ば刷り込みのように、その環境に染まって幼少期を過ごすならば、

その子供のアイデンティティは、自然とそちらに偏っていく。

 

どこかで歪みが生じた時に、親がそれを押さえつけるような強制の仕方をするのであれば、その先の関係は明るいものとはならないだろう。

 

子供側も子供側で、「人生は自己責任」であることを意識する必要がある。

貧富や病気の有無、障害の有無に至るまで、さまざまな家庭環境があるけれど、

親が責任を持つ範囲には限界がある。

どんな環境に生まれたとしても、どこかで「自分で自分の人生を生きなければならない」のだ。

 

「生まれ」をそのことから逃げるための材料にして、

不遇な家庭環境を「飯の種」にするような宗教二世のメディアへの露出には違和感を覚える。

 

「親ガチャ」なんて言葉が流行ったけれど、

それは満たされない若者たちの逃げ道として都合がよい言葉なのだろう。

満たされない現状を何かのせいにしようと思えば、いくらでも何かのせいにできる。

 

「親も完璧ではない」

 

だからこそ、親も子も、人としての自立を目指して互いに寛容になりながら、

成長し続ける努力を怠ってはならないのではないだろうか。

 

子が親のことを尊敬できれば、自然と「誇り」は継承される。

それを無理に継がせようとするから、おかしなことになるし、

子は自らの失敗を親のせいにするようになるのだ。

 

男女も、親子も、上司部下も、

あらゆる関係は、どちらかが努力を怠るために相手に寄りかかろうとするから崩れてしまうのかもしれない。

 

もちろん、幼少期は子供の立場が弱い。

親に寄りかからなければならない部分はたくさんあるだろう。

それでも、子供は親の思い通りになると勘違いして、

自分で考えさせることを奪ってはいけない。

 

どんなに囲っても、どんなに自分の思想に染めたとしても、

どこかで「子供は自立する」のだ。

その時に、子供がどのような選択をするのか。

それは、親がコントロール出来るものではない。

 

私は、「先祖の想いを継承したい」と思ったが、

私に子供ができたとして、その子供も同じように「私の想いを継承したい」と思うかどうかはわからない。

それは、私がどのように振る舞うかにかかっているのだろう。