タイトルの「正欲」には二つの意味がある。
1つは「本能から湧き上がる固有の性欲」
もう一つは「正義を貫きたいという欲求」だ。
誰にも正解などわからない。
異性の生殖器に対して性欲を抱くことすらも、本当に正しいことなのかを判断できる人間など、この世に存在しないのだ。
他人には決して理解されることのない特殊な性癖を持つ男女の「生きづらさ」を息の詰まるような重々しさで書き綴っている。
「多様性を認めるフリをする社会」に対するアンチテーゼ。
「私たちは多様性を認めます・・・ただし、本当にやばくて社会に迷惑をかける奴に対しては、それを多様性とは認めません」
結局のところ、マイノリティに対してマジョリティ側から差し伸べる手のほとんどは、マジョリティ側の自己満足なのかもしれない。
本当の意味でマイノリティの苦労を理解することなどできないのだ。
だから、マジョリティが過剰な関わりを持とうとすることは、返ってマイノリティからすれば苛立ちを誘う。
誰かに理解してもらいたい。
だけれども、誰かに理解されることは決してないと諦めている。
そんな袋小路に閉じ込められたマイノリティの苦悩を、安易な形で「救い」に終わらせずに描き切った。
結局、最後までヘテロセクシャルの人間には理解できない。
物語はそういう終わり方をする。
その「救いのなさ」がまたリアルだ。
「人間なんてみんなどこか少しずつおかしい」
結局、そのおかしいところが、社会の許容範囲であるか否かの違いでしかないのだ。
アダルトビデオに多種多様なジャンルが存在することを考えても、ヘテロセクシャルに分類される人の中でも、性癖なんてものは多種多様だということがわかる。
もしも世の中に存在するもので性欲を満たすことができないほど、特殊な性癖に支配されてしまったならば、決して肯定はできないが理解はできてしまう。
乾いて乾いて仕方がない。
性欲には、そういう我慢できない焦燥を生み出す作用がある。
どうしても既存のものでそれを満たすことができないのであれば、それを満たすために社会の秩序を逸脱するような行為に走らざるを得ないこともまた、感覚としてだけは理解できてしまうから不思議だ。
フロイトが説いたように、人が性欲に支配されている側面は確かにある。
「種の保存」と紐づかないような性欲だとしても、その人の中に一度芽生えてしまったモノを矯正することは容易ではない。
それを本人が望まなかったとしても、一度芽生えてしまった性癖を抱えて生きていかざるを得ない人もいるのかもしれない。
そう考えると、世間で起きている以上な犯罪に対しても、一定の理解を示す必要があるのだろうか?
「真に多様性を認める」ということは、そこまで含めてのことなのだろうか?
作品の中に答えは描かれていない。
私たち一人ひとりが、それに葛藤する必要があるのだ。
安易に「多様性に寄り添う」ような姿勢をとることで、自らが正しいことを行なっているという、いわば「正義に対する陶酔」というもの。
それが先行してしまったならば、それは自慰と何ら変わらないのだ。
自らの欲求を満たすために誰かを利用しているだけに過ぎない。
だからと言って、全く寄り添うことをしようともせずに、執拗に排斥しようとすることもまた、自らの正しさを証明したいという欲求に支配された姿でもある。
答えなど存在しない。
結局のところ、自らの欲望に対する姿勢は全て自己責任なのだ。
それを満たすことで、他人から賞賛されることもあれば、蔑まれることもある。
「親ガチャ」とは次元の違うくらいに、もしかしたら「性癖ガチャ」の方が人生に与える影響は大きいのかもしれない。
それでも生きていかなければならない。
結局は、どのような立場に生まれてきたとしても、私たちはその立場で歯を食いしばって生きていくしかないのだ。
ところどころで生じる欲求を飼い慣らしながら、それが暴走してしまわないように注意深く観察して生きていく。
それは「性癖」に関係なく、私たち人類全てに課された使命と言い換えられるのかもしれない。
自分が力強く生き抜くことが、似た境遇にある誰かの希望につながる。
それだけが「救い」なのだ。
だから、人は1人で生きてはいけない。