日本中が東京オリンピックに沸く最中、
小田急線で無差別に女性を切りつけた男がいた。
彼は、自分が弱者男性であり、女性からぞんざいな扱いを受けたことを根に持ち、「若くて綺麗な女性」に対する憎しみを蓄えながら生きていたようだ。
そして、小田急線内で無差別に女性を切り付けるという凶行に及ぶ。
そんな彼の公判が開かれたらしく、その供述を読んだ。
男の身勝手な行為は決して許されるものではない。
しかし、どこか気持ちがわからないでもないと感じる自分がいた。
「自分も一歩間違っていたら、こうなっていたのかもしれない」
流石に直接、相手を傷つけるようなことはしないとは思うが、若くて綺麗な女性たちへの憎しみに支配される感覚は、婚活に勤しんでいた頃の私には、確かに存在した。
いや、その前から育っていたのだろう。
当時勤めていた会社で色々とあり、不誠実な扱いを受けた結果、心の底から嫌いになったクソ女がいた。
彼女は誰からみても「若くて綺麗な女性」に該当したはずだ。
そうした経験を契機に、女性たちから不誠実な扱いを受け「弱者男性」であることを自認しながら、ブログを書き続けていた私。
当時書いていた記事の中には、若くて綺麗な女性に対する恨みつらみのようなものも多く見受けられる。
振り返って原因を分析すると、特定の個人である「不誠実なクソ女」からの仕打ちを一般化したことに病理はあったのだろう。
心の底から嫌いな対象は、「若くて綺麗な女性」ではなく、「若くて綺麗な女性」というカテゴリに属する特定の個人だ。
それを一般化して、「若くて綺麗な女性」はみな不誠実なクソ女であるとバイアスをかけたことにより、私は「若くて綺麗な女性」に対して、コンプレックスを抱いていた。
いくら努力しても報われない。
あまりにも辛いから誰かのせいにするしかない。
そうやって、私は私に呪いをかけた。
「努力は報われない」「若くて綺麗な女性に振り向いてもらえるはずはない」
そう思い込むことで、自らの可能性を狭めていく。
それでもガムシャラに動き続けたところが良かったのだろう。
どんなに諦めようとしても、私は私のことを諦めることはできなかった。
その結果として、「自分にとって世界で一番素敵な女性」だと思える妻と出会うことができた。
「生きる」ってことはさ。
とても辛いことなんだよ。
もちろん楽しいこともあるけどさ。
辛いことの方が何倍も多い。
それでも「前に進むことを止めない」
理想があるならば、そんな馬鹿みたいな、理屈では説明できないような行動に身を委ねるしかないんじゃないのかな。
この犯人は、誰かに自分の主張を伝えたかったから、確かに自分が生きていることを、世間に示したかったから、こんな凶行に出たのだろう。
それだけの行動力があるのならば、もっと別の方向に使えばよかったのに、と思うのは私だけだろうか。
罪は償わなければならない。
人に迷惑をかけて自らの欲を満たす事ももってのほかだ。
しかし、どこか人ごとには思えない。
ネットには「死刑にしろ」だとか「最悪なクズ」だなんて言葉が踊る。
主に女性側からの意見のようだ。
「男」チームと「女」チームに分かれた戦争はいつまで続くんだろうね。
いくら「多様性を認める社会」を標榜したとしても、この溝が埋まることはないのだろうか。
男だから、女だから。
そこに区別をつけて相手チームに属する個人を乏すことに躍起になる。
必死であればあるほど、その裏にはコンプレックスが隠されているのだ。
「価値のある異性から好かれたい」
だけれども、それが叶うことはない。
好きと嫌いは表裏一体なのだ。
難しいものだね。男と女というものは。
人間が生物的本能を捨て去らない限り、
私たちは永遠に争い続けるのかもしれない。
家庭や職場、はたまたネットの世界で、
今日も男と女の戦争は続いているのだ。