私は自ら主体性を持って、自分のやりたいことをやり続けているのだ。
だから忙しいのだ。
そういう心持ちで生きていたら、おそらく不満は出てこない。
今の私に生じる「忙しさに対する不満」は、おそらく私が「忙しい」と思い込んでいるからなのだ。
実際には、ブログを書く時間はあるし、遊びに行く時間もある。
自らの意思で、休日に予定を詰め込んで、疲れ果てて月曜を迎えているだけなのだ。
私は休日の予定を「主体的に」過ごしていないのかもしれない。
ある種の忙しさに酔っているだけなのかもしれない。
疲れていても誘いを断らずに予定を詰め込んでいるのだから、それは私の責任なのだ。
しかし、妻は妻で活発なものだから、私の予定が空いているところに、どんどん予定を詰め込んでいく。
こうして私の休日は、休日と言えるのかわからないような形で過ぎていく。
それでも休日は、朝の起床時間が遅い分、少しは睡眠時間を確保できることはありがたい。
その点では、この忙しさは私だけの責任ではないのかもしれない。
主体性云々の話をどこまで拡張するのか。
それ次第ということになる。
私には積極的な休息が必要なのだ。
これからは「休憩日」という予定を入れておくことにしようか。
今の私にとっては、おそらくどんなに楽しいことであっても、疲労感とともに参加することになる。
それでは、好きで入れた予定だとしても、それを楽しむことはできない。
「生き急いでいる」
そんな言葉が良く似合う。
私は、30代を生き急いでいるのかもしれない。
体以上に、心が忙しいのだ。
だから疲労感が解消されない。
それも私の人生なのだろうか。
『君たちはどう生きるか』を見て、
体が動くうちは、忙しさに身を任せる、それで良いと思ったけれども、コンディションが伴わないと、かえって時間の浪費に繋がってしまう。
30代のうちに、もう少し大人にならなければならないのかもしれない。