人類は頭が大きいから未熟児で生まれる。
生まれてから数年は他人に世話をされて生きるから、そこで社会性を身につける。
やがて社会の中での立場にこだわることになり、社会に染まり、社会の中でしか生きていかなくなる。
ハラリ氏の『サピエンス全史』によると、ホモ・サピエンスが、他の人類よりも秀でていた点は、言葉を駆使してコミュニティを構築したことらしい。
よく「道具や火を使うことができたから」と言う意見が多いかもしれないが、それは全くの誤解のようだ。
ホモ・サピエンスの他にも多くの人類が道具や火を使用していたが滅びていった。
いわゆる「集合知」と呼ばれるもの。
私たちホモ・サピエンスは、それを駆使することで、時代の荒波を乗り越えてきたのだ。
「言葉」はやがて「文字」に変わる。
それにより、格段に長い期間情報を保持することができるようになった。
その情報を蓄積する中で、生まれながらにして高等な教育を受けられるようになる。
次の世代、次の世代へと知識は積み重なっていく。
その積み重ねの中で、私たちホモ・サピエンスは、地球の覇者へと歩みを進めていったのだ。
もしかしたら、その積み重ねも転換期を迎えているのかもしれない。
「知識」よりも「感覚的なもの」へ、人類の役割は変化していっている。
「集合知」の構築は、人類よりもアルゴリズムの方が効率的にできるようになった。
時を重ねるに従って、その傾向はますます顕著になるだろう。
そうなった先に人類に与えられた役割は「感覚的に良い」というあやふやなものの構築になるのかもしれない。
いわゆる「共感」を生み出す分野だ。
弱さ、儚さ、
自らの経験と他者の経験を重ねて想起する感情。
それは同じような経験を重ねたものにしか作りえない。
合理的な美を超えた価値が宿る。
「合理的」な方向へと進化を続けてきた人類が、これから先は「非合理的」な方向に価値を見出す時代なのかもしれない。
そう考えると、何に価値が生まれるのかはわからない。
もしかしたら、私の書き残したこのブログという膨大な文字情報が、私が思っている以上の価値を生み出す可能性もゼロではないのかもしれない。
とにかく何かを生み出し続けること。
それにより満たされる感情は確かにある。
それはもしかしたら、ホモ・サピエンスの本能によるものなのかもしれない。
「知的好奇心」という名の「生存本能」に支配された人類の行く末は、どこに繋がっているのだろうか。
それとも、どこにも繋がっていないのだろうか。