「道徳」というものは、ある種の社会的圧力でもある。
「それを守らなければ社会的に抹殺される」
そうした強迫的要素を持ち合わせているのだ。
人は生活を便利にするためにコミュニティを作り出した。
それが結合していき、社会が出来上がった。
それもある程度進んだものだから、個人が個人のままで利便性を享受できる時代になる。
そうすると、コミュニティの煩わしさから逃れて、利便性だけを享受しようとする人が生まれる。
ある意味では、対価を払わずに利便性だけを享受するフリーライダーだ。
そういう人が増えると、対価を支払っている人たちへの負担が増えて、そこに不満が集まる。
いわば、「支える側」と「支えられる側」
その両者間で軋轢が生まれる事で、その不満の矛先は社会を動かすリーダーたちに向けられる。
「無意識な社会的圧力」
私たちは、コミュニティに所属している限り、コミュニティへの貢献を求められるのだ。
メリットを享受する人が増えたならば、コミュニティは立ち行かなくなる。
それは当たり前のことだ。
そして、その圧力にさらされることが嫌ならば、そのコミュニティを抜けるしかない。
しかし、コミュニティが大きくなりすぎたために、簡単に抜けることはできない。
結果として、コミュニティへの不満を飼い慣らしながら、コミュニティからの圧力を我慢しながら、可能な限りコミュニティへ貢献する努力をして、悶々と生きていくことになる。
その状態では、自己肯定感など芽生えるはずがない。
「社会保障」のあるべき姿は、もっと血の通ったものであるべきなのかもしれない。
もっと、人が人に興味を持つことが当たり前になればいいのにね。
もっと、人と人が繋がることが当たり前になればいいのにね。
人々の心が濁りすぎた結果。
自らの無垢な心を曝け出すことにリスクが生じる。
だから、人々は防衛本能を働かせて、なるべく他人との関わりを避ける。
この病理を取り除く術はあるのだろうか。
私たちは、どこへと進むのだろうか。
心なんて必要なくなるのだろうか。
有機的なものに、血の通ったものに、
もっと大きな価値が生まれれば良いのに。