「ダイバーシティ」なんて言葉が随分と前から叫ばれるようになった。
「多様性」を認めることで、その組織の持つ価値は一層高まるという風潮だ。
しかし、多様性を認めるためには、マジョリティ側にかかるコストが大きくなる傾向が強い。
多数決による決定を是とすることができないから、議論にかかる時間は増えるし、使用頻度の低い設備投資をしなければならない機会も増えるだろう。
それでも、社会が多様性を認める方向に進むのであれば、それは「必要なこと」となる。
グローバルスタンダードに合わせた方針で組織を動かさないと、組織に対するマイナスポイントは溜まっていき、やがて淘汰される社会だ。
だから、少なくとも表向きには「1人も落伍者を出さない」というような、聞こえの良いルールを作り上げる。
しかし、そのルールを運用する人たちの心まで統一することはできない。
今のような過渡期には、特に裏表にギャップのある組織体制となるのだろう。
ルールだけはあるけれど、それを使用する人はほとんどいない。
趣味のために休職をできる制度や、男性のための育児休暇。
ルールに実態が追いついていないのだ。
性別を記入しないアンケートや、少しでも差別に当たる可能性のある慣用句の使用禁止。
重箱の隅をつつくように、リスクとなり得るものは徹底的に削除する。
そうやって作り上げた新しいルールをもとに、私たちはたいした変化のない気持ちで社会生活を営む。
誰かが傷ついたと主張したり、外部から指摘があって初めて、それが課題として認識される。
些細なことであっても、それが差別に結びつくのであれば、一発レッドカードで取り返しのつかないことになる。
まさに綱渡り。
時代の過渡期を生きる私たちは、何とも足場の不安定な中で社会生活を営んでいると感じる。
「多様性」を認める方向に社会が進み、それを制度化するのであれば、それは社会要請なので仕方のないことなのだろう。
しかし、その新しいルールに慣れる暇もなく、間違いを犯した人を一発レッドカードで退場にすることは、果たして多様性を認めることなのだろうか。
古い考えに頭を支配されていることもまた個性と考えるならば、それもまた「多様性」の一部となるはずだ。
「多様性」って何なんだろうね。
自分が人とは違うところだけを指して都合よく「多様性」と言っているだけなのかな。
「多様性」を認めてほしいと主張するならば、自分も当然、「多様性」を認めなければならない。
その中で秩序を保つことは、どう考えても簡単なことではない。
もっとわかりやすく、みんなが幸せに社会生活を営みやすくなるような、そんな方針はないのだろうか。
ゲゲゲロ、ゲゲゲロ、ゲロチュー。
この曲を聞くたびに「多様性とは何なのだろうか」と考えてしまう。