物事を割り切るために、
自らを納得させるためによく使う言葉。
そう。「価値観は人それぞれ」なのだ。
そこから共通項を見つけることが容易い相手もいれば、どれだけ同じ時を重ねても分かり合えない相手もいる。
積み重ねた成功体験。
傷口の形や種類。
何に喜びを感じて、何に不安を感じるのか。
それを分かち合うことは難しいのだ。
いくら同じ時を重ねて、同じことを経験したところで、その人の持つフィルターはその人のもの。
心に落とし込む過程で、全く別のものとしてインプットされるのだろう。
相手に対する期待値が高いと、些細なすれ違いが決定的な溝を生むこともある。
逆に、大して期待していない相手であれば、些細なすれ違いを気にすることはない。
適切な距離を見誤ってはいけない。
そして、必ず分かり合えるなどと考えてもいけない。
私と妻の価値観。
見事なまでに近しいものがある。
互いが互いのことを思いやり、生活をより良くしていきたいという土台に立っている。
一見すると、めんどくさそうな妻の提案も、よくよく話を聞くと合理的であり、納得のできるものであることは多い。
その点で、私は妻のことを信頼しているし、妻もおそらくそうだと感じる。
その上で、一点だけ違いを感じるところは、私は社会性を重んじるが、妻は精神的な充足感を重んじる。
ルール違反とまでは行かないにしても、失礼に当たると思うことについて私は、自分が負担を被ったとしても、それを受け入れる。
それに対して妻は、ルール違反でなければ、自分や自分の周りが得をする選択肢を選ぶ。
その点でのすれ違いはままあるが、社会性を全面に押し出す私を盾にして、妻は「わがままを言っているのは自分だ」と、調子の良い様子で得をする選択肢の方へと進んで行き、結果として私も得をしてしまうのだから、妻はもしかしたらやり手なのかもしれない。
そうやって、得をしてしまうと、私も何も言えなくなってしまう。
「良かったでしょ」と楽しそうな妻に対して、私は「そうだね」という他ない。
私と妻は「家庭」という名の船を作り始めた。
私には私の役割があり、妻には妻の役割があるのかもしれない。
夫のことを「立派な人」に仕立て上げた上で、うまいこと舵を切っているのは妻だったりする。
そういう家庭は多いのだろうけれど、間違いなく私も、裏で妻に動かされるようになるのだろう。
私は船首として、立派に見えるようにだけ振る舞っておけばいい。
それにだった努力は必要なのだけれども、見えないところでは、妻が何から何までやってくれている。
「うち」は、そんな古風な家庭になるのかもしれない。
とにかく、私は「ちゃんと」していなければならないな。
妻は、私が思ったよりずっと、ちゃっかりとしていた。
私はそういうことに無頓着で、多少損をしたところで体面の方を優先していたけれど、すでに妻の影響で、価値観は変わってきているのかもしれない。
詰まるところ、同じ人であっても、時と共に価値観は変わっていくのだ。
価値観は人それぞれ。
そして、人の中でも変わっていく。