ただこなしている。
あまり動揺することが少なくなった。
受け入れ難い課題を突きつけられたとしても、
淡々と善処するしかない。
それはある意味では諦めなのかもしれない。
私は私の目の前に突きつけられた課題を淡々とこなしている。
しかし、そこに主体性があるかと問われると、おそらく主体性などない。
そういう生き方が染み付いてしまったら、
果たして私は幸せだと言えるのだろうか。
「主体性の喪失」
今年1年間突きつけられた大きな課題だ。
あまりにも忙しいと、心を動かすこと自体が邪魔になる。
だから機械のように淡々と課題解決に向けて善処する。
私にできることはそれしかない。
ただただ、淡々と善処するだけなのだ。
それでもできないことは仕方がない。
どこかで折り合いをつけながら、心にもない謝罪を重ねることで、目の前の課題を潜り抜ける。
そういうスキルばかり発達したら、人間として薄っぺらいまま時を過ごすことになりはしないだろうか。
そんな焦燥感に苛まれる。
それもこれも、自動化が進んでいることの影響を感じる。
手順のフレームワーク化が進み、何をするにしても基本の形に当てはめて進めていく。
効率化を目的とした標準化。
企業組織としてはとても効率的な考えであることに疑いの余地はない。
しかし、そこに個性はない。
むしろ個性を出すと効率が悪くなる可能性がある。
機械と同じように、ただやるべきことを淡々とこなすだけだ。
上からの評価基準も、いかに無駄なく効率的にタスクをこなしているかに依存する。
ただ画面と向かい合って、ただ手を動かし続ける。
そうなると、顧客の要望が非合理的であることに苛立ちを覚える。
私の頭もどんどんフレームワーク化していくのだろう。
それに当てはまらない要求に対して寛容ではいられなくなっていく。
それはもしかして、人間としては退化しているのかもしれない。
人間が人間である理由。
それは非合理的なことを寛容に受け入れることができるか否かにあるのかもしれない。
全てが合理的であらねばならないという時代で、いかにそこから外れた、いわばミスや間違いに対して寛容になることができるか。
それがそのまま「人間力」に繋がる。
とにかく失敗することは悪で、一度失敗するとそこから這い上がることは難しい社会。
それを肌感覚で感じているからこそ、若者は失敗を恐れるようになる。
どんどん先細っていくことにならないだろうか。
人間の可能性は、AIに奪われることになりはしないだろうか。
そんなことばかり考えている。
人間が人間であるために、私たちはどう生きれば良いのだろうか。