多くの痛みを引き受けることで、人の痛みを知ることができる。
その繰り返しの中で人は本当の意味で優しくなることができるのだ。
「痛み」を経験していない「優しさ」
どこか薄っぺらい。
苦悩が深ければ深いほど、その薄っぺらさに苛立ちを覚える。
今の時代は、表面的にうまくやることばかりを求められる時代だ。
反射的に、当たり前のように口を突いて出る「優しい言葉」
そこに心はこもっていない。
薄っぺらい「優しさ」。
相手のことを思いやる気持ちが根底にあれば立派だ。
思考を経て、相手に対する思いやりを源泉として発せられる言葉には力がある。
そうではなく、反射的に口から出る優しい言葉。
私たちは、それをコミュニケーションを円滑に運ぶための道具として利用してやいないだろうか。
それが癖になってやいないだろうか。
相手に優しさを向ける時、今一度自分の心と向き合う必要があるのかもしれない。
今向けようとしている優しさは、相手のことを思う気持ちを厳選としているのだろうかと、自らに問いかける必要があるのかもしれない。
表面的な優しさばかりを器用に使いこなしている気がする。
テクニックとして、そういうスキルが体に染み付いている気がする。
それは私の望むところではない。
役割でもなく、自衛でもない。
心の奥底から反射的に、目の前の相手を思いやることができるようになりたい。
社会はどんどん優しくなっている。
正確には、「優しさ」や「正しさ」を人に強いるようになっている。
果たして、人のために社会があるのか、
それとも人は社会を構成するために存在しているのか。
わからなくなる。
私たちは、何を目的として「優しさ」を他人に対して向けているのだろうか。
今一度、考える必要があるのかもしれない。