「悔し涙」を流したこと。
記憶にないくらい昔のことのように感じる。
先日のこと。
道を歩いていると、何かに失敗してしまったであろう子供がすすり泣きをしながら、兄と思われる子供に「次は失敗するなよ」と励まされている光景を目にした。
心の中で「頑張れ」と応援しながら、それを横目に通り過ぎていく。
それと同時に「自分が最後に悔し涙を流したのはいつだったか」と、そんなことを考えた。
振り返ると20代前半の頃までは、そういう経験をたくさんしたように思う。
しかし、そのあとはほとんど記憶がない。
30になった辺りでメンタルをやってしまった頃は、悔し涙を流した覚えがある。
それが私にとって最後の「悔し涙」だっただろうか。
そう考えると私は、10年近くも悔し涙を流していないことになる。
「悔しい」という感情が生じる機会はたくさんある。
しかし、それを受けて涙を流すところまではいかない。
それは私にとって成長なのだろうか。
それとも後退なのだろうか。
感情をコントロールできるようになった、という点では成長なのだろう。
しかし、それと同時に「生の実感」を手放してしまったかのような物悲しさがある。
それが人生にとってプラスなのかマイナスなのか、それは私にもわからない。
「涙を流すくらい夢中になれること」が無くなったのだろうか。
いや、そんなことはない。私は今でも必死に生きていると自負している。
では、やはり感情をコントロールできるようになったのだろうか。
そういうことなのだろう。
では、私の中でどのような変化が生じて、感情をコントロール出来ているのか。
それは、私が自分の上にある天井を受け入れることができているから、だろうか。
今の私の頭上には、際限なく続く空ではなく、少し高い台を用意すれば触れる程度の天井が見えている。
その天井を壊すことを考えた時期もあったのかもしれないが、今はその天井をうけいれている感覚がある。
天井があったとしても、縦横の空間はまだ先が見えないほど広がっている。
それならば、これ以上高いところを目指すのではなく、今の視点でフラットに人間性を広げていけば良い。そんな感覚でいるのだ。
私は、失敗しても別の道があることを知った。
それが私から「悔し涙」が消えた要因なのかもしれない。
ある意味でそれは、私が「自己肯定感を獲得することができた」ということなのだろう。
今の私は望む未来を生きている。
そんな感覚が私から「悔し涙」を奪ったのだ。
それは喜ばしいことなのだと信じたい。