「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

結局は「べき論」から抜けだせない

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長い時間をかけて作り上げてきた。

「自分のやり方」という名前の「システム」


私なりに価値観をアップデートしてきたつもりだ。

 

だから「常識」だとか「一般的」

必要以上にそういう言葉に縛られることは少なくなったけれど、

どこまでいっても「システム」からは抜け出せないのだ。


「嫌悪」によって、

「怒り」や「憎しみ」は生じる。

 

「こうするべき」

「こうあるべき」


そういう言葉を避けることで、

「システム」を拡張してきたけれど、

いくら拡張したところで、

私の作り上げた「システム」であることに変わりはない。


私の根底には、

私が私であるための「核」があって、

それを礎にして、

「自分のやり方」というシステムを組み上げている。


その「核」は私自身、

おそらく「無意識」と呼ばれるもの、

それは簡単には手出しできないもの、


「三つ子の魂百まで」というけれども、

生まれ持った性質、

生まれた環境によって左右されるもの、

 

そういうものってあるのかもしれない。

 

結局、私の中にある理想や信念、

そういうものが私を支配している限り、

私は「べき論」から抜け出せないのだ。

 

歩み寄る努力によって、

互いを尊重することは可能だけれども、

心の中までは変えられない。

そして我慢するようになる。

 

そうした結果、

イライラやモヤモヤに囲まれて生きるならば、

そんなものを大事を抱えていないで、

もっと自由に生きればいい。

 

人と会う機会が極端に減ったけれど、

それで自由を感じるのならば、

きっと今までの生活におかしなところがあったということ、

 

今回の騒動はそれに気が付くチャンスでもある。

 

何の不満もなくて、

何一つ不快にならない。

 

そんな関係はありえない。

 

個々の環境で育まれて、

それぞれに理想や信念が生まれて、

「自分のやり方」って名前のシステムを作り上げている。

 

誰かと一緒になるって、

そのシステムを再構築しないといけないのだ。

 

同じ時を過ごしてきたわけではないのだから、

システムをそのまま流用するなんてできない。

 

理想や信念、

そういうものを徐々に差し出しながら、

スポイルされて生きる。

 

どんなに「自分」を殺しても、

どこかで「自分」は生きていて、

イライラやモヤモヤは澱のように溜まっていく。

 

そして徐々に歪みが生じる。

それでも自分を殺し続けていると、

神経がおかしくなってしまう。

 

「こうするべき」

「こうあるべき」

 

私から生まれるそういう感情を、

ここしばらくは嫌悪してきたけれど、

その中にこそ「私」の本質があるのかな。

 

「価値観が劇的に変わるような出来事」

 

これまでに思い当たる限り、

2度ほど経験しているけれど、

それでも私の「核」たる部分はそう変わらない。

 

だから積み上げるしかないのだ。

たとえ土台が不安定であっても、

今あるものの上に積み上げるしかないのだ。

 

どんなに割り切ったつもりになっても、

土台は変わらない。

 

言葉や態度を変えることはできても、

心まで変えることはできない。

 

「大人の対応」というオブラートで包み込んだところで、

「嫌い」なものは「嫌い」だし、

イライラもモヤモヤも出所は自分自身、

 

変わったように見えても、

変わったつもりになっていても、

どんなに言い回しを穏やかに変えても、

これまでの人生を捨てることはできない。

 

どんなに大人しく黙っていたところで、

これまで過ごした時間や経験、

それによって作り上げてきたシステムが雄弁に物語る。

 

結局は本質的なところで、

人は「べき論」から抜けだせないのだ。

 

自粛してからお金を使わなくなった

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今回の騒動で自粛してから、

支出の増えている人が多いって聞いたけれど、

みなさん何にお金を使っているのだろう。

 

私の場合はまず交際費が極端に減った。

アプリで家計簿をつけているので確認してみると、

月に2〜3万円使っていたものがほぼゼロだ。

 

2度ほど行なったLINE飲み会なんて、

2回分合わせて1000円ちょっとしかかかっていない。

 

騒動の直前までは、

婚活をしていたことはあるけれど、

それにしても極端だ。

 

交通費もかからないし、

人と会う機会が減ったから服を買う気にもならない。

動かない分あえて食事の回数を減らしているから、

食費もかからない。

 

光熱費は若干増えているけれど、

たかが知れている。

 

休日は家に引きこもって、

Amazonプライムやゲームに読書などをして過ごす。

休日どころか出勤日以外は平日も家からはあまり出ない。

 

外食は減ったし、

酒は飲まなくなったし、

タバコはもともと吸わない。

 

ジムは去年やめて自重での筋トレと、

週に一度はマスクをしながらランニングしている。

 

お金を使う要素がないのだ。

 

「支出は自己肯定感を生む」

 

そんな話をどこかで読んだことがある。

今の私は自己肯定感だだ下がりなのだろうか。

 

こういう時だからこそ、

家にいて贅沢なスイーツなどを嗜む。

それもいいな。

 

だけれども最近、

食べる回数だけでなく量まで減ってきた。

あまりお腹が空かないのだ。

 

もともとストイックなタチだから、

このまま修行僧みたいになってしまいそうだ。

 

女性とも縁遠くなって、

一人で生きていくのかも知れないな。

 

なんだか時間ができたものだから、

自分からいろんなサブカルに手を出して、

無理やりにそれを埋めている。

 

もっとのんびりと構えて、

雲でも眺めながら生きたいな。

 

今回の騒動がおさまったら、

前と同じ生活に戻せるのか不安だ。

 

こんなにどうでもいいことばかりに時間を費やして、

このまま生活を戻したらとても時間が足りないだろう。

またゼロから取捨選択をし直さないといけないな。

 

大丈夫かな。

「人と会わないほうが気楽だな」

どうやらそういう思考になりかけているようだ。

 

今回の騒動が、

無駄に近くなりすぎた人と人との距離を、

適正なものにしてくれればいい。

 

「人の温もりに触れたい」

 

そういう気持ちも人との触れ合いが減ると、

どうやら薄れてしまうのだな。

 

すでに相手がいる人たちは、

これを機に一緒になることが多いみたいだけれども、

私には縁のない話、

 

これでは独身街道まっしぐらだ。

そういう運命なのかな。

 

人類はどこへ向かうのだろう。

そして私はどこへ向かうのだろう。

 

自分に呪いをかけないで、逃げてしまいなさい

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ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ

その中で印象に残るシーンがある。

 

「恋愛なんて割り切った関係で男女のどちらが相手を食い物にするかのゲーム」と豪語する、

そんな内田理央さん演じるポジティブモンスター、

 

そのポジモンに「おばさん」と煽られた、

石田ゆり子さん演じるバリキャリ高齢処女のゆりちゃんは、

落ち着いて切り返す。

 

「今あなたがバカにしたものは未来のあなたなのよ。

自分に呪いをかけないで、逃げてしまいなさい」

 

ポジモンはあえなく撃沈、

 

最近「逃げ恥」を見たわけではないけれど、

このシーンは何故だか頭に残る。

 

人は自分でも気がつかないうちに、

自分に呪いをかけているのかもしれない。

その一つはとてもポピュラーなものだ。

 

「努力は必ず報われる」ってやつ、

 

そうあってほしいと望むけれども、

決してそうではない。

 

人は時間をかけたものほど肯定したがる。

 

だから努力の先に結果が伴わなかったとしても、

ありとあらゆる手段を使って、

自分を納得させるのだ。

 

「知らなかったことを知ることができた」

「失敗から学ぶこともある」

「次につながる」

 

確かにそうかもしれない。

それを次への原動力にすることは素晴らしい。

 

だけれども、

それを無理やり自分に言い聞かせてしまったら、

そこから先の行動にバイアスがかかってしまう。

 

何をするにしたって、

過去の「痛み」に紐づけてしまうのだ。

 

そうなってしまうと、

ずいぶん長いこと引きずることになる。

 

何でもかんでも関連付けて、

いつまでもその「痛み」を意識し続ける。

自分から「痛み」にしがみつくようになる。

 

私の中にもある。

そんな厄介な「痛み」ってやつ、

その感情をうまく捨てたいものだ。

 

「理想」や「信念」は諸刃の剣なのだ。

 

多くの場合はそれが武器になるけれど、

それが「呪い」に変わることもある。

 

自分で自分を縛り付けて、

自分の脳をだまし続けて、

心の声に耳を傾けないでいると、

走ることをやめられないで、

最後は力尽きてしまう。

 

気を付けなければならない。

この世の中に「絶対」と言えるものなんてないんだよ。

 

だから誰からどう思われようとも、

自分で自分をマネジメントしてあげないといけない。

 

そういった意味で、

冒頭のゆりちゃんの返しは見事だ。

 

相手の敵意を受け流して返り打つと同時に、

自らの尊厳をしっかりと守っている。

 

最後は年下のイケメンと結ばれる。

こういう人には幸せになってほしいものだ。

 

ちょっと待て、

「こういう人には幸せになってほしい」

それもバイアスだな。

 

「こういう人は幸せになるべきだ」って、

私は私に「呪い」をかけている。

 

その呪いを解く方法はおそらく、

逃げ出してしまうことなのだろう。

 

努力できることは素晴らしいこと、

だけれども逃げ道は作っておかないといけない。

 

自分で自分を追い込んで退路を断つ、

 

「こうでなければならない」

「自分はこんなところで終われない」

「まだまだ努力が足りない」

 

そうやって、

知らず知らずのうちに呪い殺されてしまったら、

元も子もないのだから、

 

話題のバンド「ヨルシカ」の曲に衝撃を受けた

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前にも記事にしたが、

テレワークをしているものだから、

音楽をかけながら仕事をしている。

tureture30.hatenadiary.jp

 

最近の私の情報源はほとんどAmazonだ。

このバンドもAmazon musicで知った。

 

適当に曲を流していて、

「これは!」と衝撃を受けたので調べてみた。

 

 「ヨルシカ」

2017年に結成した男女二人組バンド、

作詞作曲を担当するギタリストのn-buna(ナブナ)さんと、

女性ボーカルのsuis(スイ)さん、

 

「先入観」を与えたくないとの思いから、

容姿や経歴は非公表としているらしい。

n-bunaさんはボーカロイド出身、

歌詞の複雑さからそれが滲み出ている。

 

 

私は音楽の魅力は「音の外し方」にあると思っている。

絶妙な音の外し方を聞くと、

その違和感に心ひき寄せられて聞き入ってしまう。

 

ボーカロイド出身者の特徴でもあるのだろうか。

米津玄師さんの曲もそういう「音の外し方」がうまい。

 

歌い手は自由自在だから、

歌詞や歌手ありきの曲ではなく、

曲に歌詞を乗せて、

曲に合う声をマッチングさせるのだろう。

 

もちろん歌詞がいい加減というわけではない。

商業主義にまみれていないまっすぐな歌詞が心を打つ。

 

そこから派生した音楽、

音の多さと歌詞の複雑さ、

それが特徴的、

トリッキーな強弱のつけ方をする。

これが新しい音楽というものなのだろうか。

 

今の音楽に特別詳しいわけではないけれど、

ボーカロイドが世に出てから16年が経つらしい。

 

テクノロジーの発達によって、

もしかしたら埋もれていたかもしれない、

そんな多くの才能を引き揚げたのだろう。

 

正攻法ではうまくいかないこともあるだろう。

だけれども聴衆の支持を得れば見る目は変わる。 

 

世の中きっとそういうもの、 

  

「ヨルシカ」

 

特に印象に残った曲をいくつか紹介する。

どれも疾走感がすごい。

 

 

言って。


だから僕は音楽をやめました

 


ヒッチコック


 

八月、某、月明かり

 

藍二乗

 

心に穴が開いた

 

詩書きとコーヒー(cover)

 

爆弾魔 (cover)

 

 

700の記事を書いて

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昨日の記事は700個目の投稿となりました。


600から振り返ってみると、

あまりにも変化のあった3ヶ月余り、

 

2月は出張三昧に、

最後のデート、そして音信不通、

3月は心を掻き毟られるような日々、

イライラが止まりませんでした。

 

そして4月からの緊急事態宣言発令により生活は一変、

とても慌ただしく、

ある意味では落ち着いた日々を過ごしています。

 

ゴールデンウィークは恐ろしいほど何もなく、

少し走って筋トレして、

あとは読書とアニメと映画とゲームばかりに時間を費やしました。

 

一度行ったオンライン飲み会、

思いのほか盛り上がり来週も行う予定です。

 

思えば、

私のことばかりを書いていたブログでしたが、

この期間には大きな変化がありました。

 

「コロナに負けるなシリーズ」の執筆、

 

せっかく何かを発信しているのだから、

「励ましを送りたい」

そういう思いで始めました。

 

これを機にお陰様で多くの方と、

新たに繋がることができました。

 

私のブログ、

「言葉にできない気持ちを吐き出すための場所」から、

少し変わってきたのかもしれません。

 

私のブログに対する向き合い方も、

少し変わったように思います。

 

「自我の芽生」とでも言うべきでしょうか。

 

好き勝手に気持ちを吐き出していただけの幼児期から、

どこか社会的な意義を求めるようになったのかもしれません。

これが今後にどう影響するのかは私も楽しみです。

 

気がつけばブログを始めてから2年を経過し、

読者様も1000人を超えました。

 

いつもコメントをいただいたり、

ブックマークをつけていただいたり、

スターをつけていただいたり、

本当にありがとうございます。

 

当面は私の生活に変化はなさそうです。

 

このような調子で継続する予定ですが、

気が向いたら引き続きお付き合いください。

 

いつも本当にありがとうございます。

 

アルベール・カミュ『異邦人』

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ノーベル賞作家、

アルベール・カミュの代表作、


確か学生の頃に課題か何かで購入したもの、


書棚を漁っていると出てきたので、

ふと手に取るとそのまま最後まで読んでしまった。


テーマはとても多様な解釈ができる。

 

私の解釈では、

アナキストの視点から社会における不条理と同調圧力の滑稽さを浮き彫りにする」

というところか。

 

アナキストと言っても、

いわゆる「無政府主義者」ではなく、

心の拠り所を持たない「無神論者」に近いか。

それが表題の所以だと感じる。

 

以下あらすじ、

 

世界に無頓着、

というよりは社会に無頓着というべきか。


亡くなった母の葬儀を淡々と済ませ、

涙一つ流さない。


悲しみにくれるでもなく、

翌日には恋人と喜劇映画を見て、

情事に耽る。


だけれども自然に安らぎを感じたり、

自らの理をもっている。

それが社会の常識とは一線を画しているだけ、


そんな無味無臭な主人公の男、

 

その視点で語られる「生と死」「社会の滑稽さ」

その緻密な描写はとても読み応えがあった。


ある日、主人公は事件を起こす。


友人と恋人と海水浴に出掛けた先で、

危ない仕事をしている友人を恨む男が襲い掛かる。


そのやり取りの中で、

主人公は相手の男が構えた刃物を照らす、

太陽の光に正気を失ったかのように男を銃殺してしまう。


そうして逮捕され、

何もかもを失い自由を奪われながらも、

その生活の中でも自らの理を曲げずに、

ささやかな自由に身を投じて淡々と生きる。


自らの裁判をどこか俯瞰して見ており、

「私の裁判なのに私のいる必要などないように淡々と進む」と評する。


動機を「太陽が眩しかったから」と言い放ち、

母が亡くなっても悲しみ一つ見せない態度や、

裁判中の不遜な態度を反省の色無しと判断され、

判決は「死刑」


何度も神父が訪ねて懺悔を進めるも、

彼は「神など信じていない」と拒否、


そんな彼が唯一感情を露わにしたのは、

神父のしつこさと神を絶対視して止まない態度だ。


たとえ牢獄にあっても、

自分の心は何者にも縛られない。

 

そのような主張をして神父を罵った後に、

妙な悟りを得た彼は、

処刑台にて嘲りと恫喝を浴びせられることを、

今生最後の望みとして命尽きるその時を待つ、


処刑を前にしても彼の心は安らぎに満ちていた。

 

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『異邦人』


そのタイトルは、

「人とは異なるもの」

「人ではないもの」

そのような意味が込められている。


当時の西欧社会を鑑みると、

「神を信じないもの」と言い換えられる。

今で言えば「社会を信じないもの」か。

 

同調圧力をものともせずに、

「空気」だとか「雰囲気」を読まない人、

そんな人が現代の「異邦人」に当たるのだろう。


「全く忖度をしない」


それが「異邦人」

持ちつ持たれつの歪な関係で繋がれた社会、

半ば「空気を読むこと」が当たり前となっている。


1942年に書かれた作品だけれども、

当時の西欧でもそのような空気に支配されていたのだろうな。


人間は多様性を持つ生き物だ。


知恵を身につけたばかりに、

育ってきた環境が他の生物の比にはならないほど複雑に絡み、

各々の性質を作り上げる。


「自分らしく生きること」と、

「人間らしく生きること」


一個人に置いて、

必ずしもそれが一致するとは限らないのだ。


だけれども「人間らしさ」

そういう社会規範というルールを作る側から見て、

「異質」とされたならば「排除」の対象になる。

 

ルールに守られるからには、

ルールを守る必要がある。

 

そうやって人は、

自らを守るとともに自らを殺し、

生きやすくすると同時に、

生きづらい環境を手に入れた。


本作では「殺人」という、

センセーショナルな書き方をしている。

それはもちろん罰せられるべきだ。


しかし組織にいると、

必要かどうかもわからない同調圧力

そういうものにうんざりすることはたくさんある。


「自分らしさ」を貫くことで社会に殺される。

そういう大きくなりすぎた同調圧力に、

一石を投じる作品なんじゃないかな。


主人公像は純文学のそれだ。

無味無臭な主人公の視点から描く社会風刺、

村上春樹作品に通じるものがある。

 

確か『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の中で、

本作に言及していたはずだ。


ただ村上春樹作品と決定的に違うのは、

「市井の人」ではないこと、


村上春樹作品の主人公は総じて、

小賢しいけれど小市民だ。

 

大きな傷を抱えていて、

それと生真面目に向かい合いながら生きている。

無感情に人を殺めることはまずない。


ただ多くの作家が影響を受けた作品であることは、

間違い無いのだろう。


本作をお薦めするかと問われると、

とても迷う作品だ。

諸刃の剣みたいな危険な香りのする作品でもある。


ただはっきりと言えることは、

その時代に爪痕を残し、

時の洗礼を受けても色あせない名作ということだ。

 

余談だけれども、

久保田早紀さんの代表曲『異邦人』は、

おそらく「旅先での行きずり相手」というような意味、


「地元ではない人」ということだろう。

これもまた情緒のある名曲、


前に中島みゆきさんの『ファイト!』でも動画をリンクした歌い手さんが歌っていた。


 

「幼稚な全能感」ってやつ

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人には「自己肯定感」が必要だ。

 

自尊心だとか自尊感情

アイデンティティと言い換えてもいいかもしれない。

 

地位や名誉、

資産や肩書き、


そういう物を手に入れるほどに、

その人の自己肯定感は高まる。


一見するとそうだろう。


だけれども、

そういうものを心の拠り所にすると、

それを失った途端に、

自分が何者だかわからなくなる。

 

手に余る栄光を手に入れたことで、

人格まで変わってしまう人もいる。

 

「自分は優れているんだ」って、

他人の評価でしかそれを確認できなくなる。

 

一種の依存症だ。

 

人は強烈な高揚感を経験すると、

その対象に依存することになる。

 

それが強烈であればあるほどに、

抜け出せなくなってしまう。


今まで積み重ねてきたもの、

裸になっても離すことができないもの、

 

そういうものが、

自分自身の本当の価値なんじゃないかな。


きれいに着飾って、

得意気に名刺を忍ばせて、

預金通帳を眺めながら自己肯定感を高めたって、

最後はすべてを手放すことになるのだ。


ありのままの自分を好きになってあげないと、

結局はどこかで行き詰まる。


誰が見ていても、

見ていなくても、

自分は自分のことを見ている。


だから自分のことを嫌いになるような行動はしない。


そういう積み重ねで、

「自分の価値を認めてあげること」

それを徐々にできるようになるんじゃないかな。


誰かに認めてもらわないと、

自分のことを認めてあげられない。

 

それでは余りにもかわいそうだ。

 

誰かに自分の価値を委ねたところで、

いつまで経っても救われない。

 

どこかで変わらなければならないのだ。


「幼稚な全能感」を捨ててさ。

「自分にはできない」ってことを認めようよ。

「自分は大したことない」ってさ。

 

そこから始まるんじゃないかな。

 

「自分が何者かを知りたい」

 

そういう言葉をよく聞くけれど、

それって本当に必要なことなのかな。

 

その言葉の頭には「誰かと比べて」って、

そんな言葉がつくんでしょ。

 

本当はさ。

自分は誰よりも自分のことを知っているけれど、

「不甲斐ない自分」を認めてあげたくないだけ、

 

人生は長いから、

上手くいくこともあれば、

上手くいかないこともある。

 

上手くいったことばかりに縛られると、

どうしたって上手くいかない時の自分を認めてあげられなくなる。

 

「ダメな自分を無条件に愛する」

 

それってとても難しいことだけれども、

一人の時間を取れる今だからこそ、

それに取り組むべきなのかな。

 

人は孤独と友達になれなければ、

真に大人にはなれない。

 

自己肯定感の源泉って、

自分で自分の価値を認めてあげること、

 

いい年して子供のままなのは嫌だな。

死ぬまで子供のままでは嫌だな。

 

どこかで手放してあげないと、

 

長いこと仲良くしてきて、

いつだって自分を守ってくれた。

 

「幼稚な全能感」ってやつを、