ある意味でこの記事は「リライト」だ。
だいぶ前にこういう記事を書いた。
これは私の実感であり、
パニック障害を乗り越えるための心の支えでもあった。
昨今「発達障害」にスポットが当たり、
その「生きづらさ」を主張したものが目に付く。
当の本人も「もっと早く診断されたかった」
そう主張することが多いようだ。
「自分探しの旅」
「何者かになりたい」
「自分が何者かを知りたい」
雑誌やニュースの特集として、
そのような記事が紙面に踊る。
パーソナリティが肥大化した時代、
人は理解できないものが怖いのだ。
だから「名前」をつけたがる。
だけれども「名前」を付けたところで、
「自分」が「自分」であることに変わりはない。
明らかな病変があるものならばともかくとして、
「精神的な特性」なんてさ。
100人いれば100通りのものがある。
だから「自分」になるということ、
どのような不甲斐ない自分であっても、
それを受け入れる覚悟、
そういうものが必要なんじゃないのかな。
「名前」を付けて安心する。
それが大事な時期もあるけれど、
それはゴールではない。
それだけで終わってしまったら、
いつまで経っても先には進まない。
そして「社会」に対して、
集団で配慮を求めるようになるのだ。
「社会」と折り合いをつけることは大事だけれども、
「社会」にばかり責任を押し付けたところで、
何も変わらないのだ。
「変われない部分」はもちろんある。
だからと言って、
「変わらない」という選択肢はない。
だから「名前」を付けただけでさ。
それを盾にしてさ。
「〇〇グループの私」って、
それを演じる必要ってあるのかな。
「パニック障害」
その言葉は、
私にとっては「言語化の道具」に過ぎない。
医師からはそのように診断されたから、
とりあえずわかりやすいように「ラベル」にしているだけだ。
私の症状は、
一般的なそれとはずいぶん違うようだし、
「不安神経症」の類でも、
「全般性」のそれに近いのかもしれない。
私も随分と調べた。
自分をラベル付けするためにさ。
毎日毎日、暇さえあれば自分の症状を調べていた。
だけれどもいくら調べたところでさ。
自分の症状とまったく一致するものは、
どこにも無かった。
だからこの病気、
いや、病気かどうかもわからない。
私に起きたこの「現象」をさ。
唯一無二の「自分病」と名付けた。
結局は言語化するために名前を付けるのだけど、
フォーカスするのは「病気」ではなく、
「自分」なのだ。
何かに所属することで安心しても、
根本的な解決にはならないんじゃないかな。
もちろんそれが「必要な時期」は否定しない。
だけれども、
自分の足で立てるようになったらさ。
自分の足で立てそうなところまで来たらさ。
「自分」になる覚悟が大事なんじゃないかな。
どんなにひどい目に合って、
誰かを責めたところで、
この人生って、
最後は「自己責任」なのだ。
どこまで行っても付いてくる。
「人生」ってやつ、
生きている限りはさ。
そいつと向き合っていかなければならないんだよ。
そう思えるだけの強さは、
いつまでも持ち合わせていたいな。