「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

人は「イマ」を正しいと思い込むことで生をつないでいる

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人は都合のいい生き物だ。

そして生きていくことは辛い。


だから選んだ道の先、

その先の「イマ」が正しいと思い込むことで、

「生きるための糧」を得ているのだ。


「イマ」を肯定する傾向、

いわゆる「ポジティブ」というやつ、


それがさんざん持て囃されているのは、

人が「イマ」を正しいと信じたいからだろう。


「イマ」を正しいと思い込む。

それ自体はライフワークとして人生に必要なもの、


だけれども、

その方法については理解を深めたほうがいいんじゃないかな。


「ポジティブ」には2種類ある。


1つは「何とかなる」

もう1つは「何とかする」


前者は「受動的」で後者は「主体的」

それは大きな差だ。


私は後者でありたい。


生きている限り悩みは尽きない。

「生きること」は簡単なことではない。


スポットで辛いことはあったとしても、

20代ではそんなことをほとんど思ったことはなかったけれど、

30代になってからは「生きること」の辛さ苦しさを感じる。


心も体も病気をした。

「報われない努力」があまりにも多い。


どれだけ望んでも誠実を尽くしても、

望むものは手に入らない。


「人生」とはそういうものだ。


だけれども私の人生の責任は、

私がとるしかないのだ。


だから「何とかする」

「何とかする」しかないのだ。


そしてガムシャラに動いた、

その先にある「イマ」だからこそ、

「正しい」と思い込むことができる。


Mr.children『Any』

今僕のいる場所が

望んだものと違っても

悪くはない

きっと答えは一つじゃない

 

「愛してる」と君が言う

口先だけだとしても

たまらなく嬉しくなるから

それもまた僕にとって真実

 

そう思えるためには、

「主体性」が必要なのだ。


「自分は自分の人生を生きている」


その実感があるからこそ、

人は心の底から「イマ」を正しいと思えるのだ。

 

とりあえずは、

変化を求めて先に進み続けるしかないのかな。

 

人は都合の良い生き物だから、

「自分で選択した」という実感さえあれば、

きっとその先を肯定することができるのだ。

 

 

まず第一に「反芻思考」を止めること

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私は自省的だ。


だから「ストレッサー」に晒されると、

無意識にそのことについて「反芻思考」を始める。


頭の中をグルグルと「負の感情」が駆け巡る。


それで対処法が導き出されるものであれば、

その通りにすればいいけれど、

「感情的なもの」の多くは、

考えたところでどうしようもない。


それでもグルグルグルグルと駆け巡り、

「不安」や「怒り」に苛まれるようになる。


「こりゃ、あかん」


そう思ったら考えるだけ時間の無駄、

それにイライラする分、健康にも悪い。

良いことは何もないのだ。


「気持ちの整理」なんてものは、

一人で考えたところでできるものではない。


その正体を追いかけるのであれば、

信頼できる人の前ですればいい。

人に話すことで思考は整理される。


「割り切るしかない」


相手がいるものだから、

「感情の問題」は厄介なもの、


そんなものに脳のリソースを使うくらいならば、

楽しみの一つでも見つけたほうがいい。


「行動」を「感情」に合わせるのではなく、

「感情」を「行動」でコントロールするのだ。


「私の時間の使い方は私が決める」


そう強かに生きるのだ。


想像することしかできない、

そんな誰かの感情に思いを馳せて、

心の中にある「負の感情」を育てたところで、

リターンは役に立たないものばかり、


先のことばかりを予測したがるから弱くなる。


どのような悪意をぶつけられたところで、

それに対処できるだけの力強さ。

そういう「ぶっつけ本番力」を育てないといけない。


大丈夫だ。

私はまだ生きている。


たとえそれが意図したものではなくても、

私に「悪意」を向けてくる輩の気持ちに寄り添う必要はない。


まず第一に「反芻思考」を止める。

肝に銘じておこう。


「誠実さ」の中には、

「自分の欲求に対する誠実さ」も含まれる。


私は「誠実さ」を盾にして、

傷つくことを恐れているだけ、


私は私を殺してまで、

「誰かに誠実である」必要はないのだ。


「自我」というものが無くなったら、

どんなに楽に生きられるのだろうか。


だけれども、

「自我」があるからこそ、

「私」は「私」なのだ。


「自分の人生を生きる」ということは、

なんと辛く苦しいものなのだろう。

 

伊藤計劃『ハーモニー』

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「人類が目指す理想の最果て」

 

テーマの面白さも去ることながら、

緻密な構成と世界観、


そして比喩表現や言葉の言い回し、

章を終えるごとに次のページをめくりたくなる疾走感、

一行一行にとてつもないセンスを感じる。


文庫本にして350ページ余り、

小説としての完成度の高さに脱帽する。


著者の伊藤計劃氏、


間違いなく天才だ。

惜しむべくは若くして亡くなったこと、


34歳、

脚光を浴びて間も無く、

肺癌で亡くなった。

そして『ハーモニー』は遺作となる。


2008年に発行された小説、


「健康の外注化」が進む近未来、

人々の健康は全て「生府」と呼ばれる政府が管理する。

現実でも世界は間違いなくそっちに向かっている。


「もうあるよ」

 

そんな象徴的な言葉で煽る、

Apple Watch」のCM、


あれはウェアラブルだけれども、

この世界では、ある年齢に達すると、

Watch Me」と呼ばれる分子を体に注入されて、

全ての身体的情報は「生府」の監視下に置かれる。


事の発端は「核戦争」

人類史上最大の暴力に晒されたのち、

生き残った人類はシステムを作り上げる。


人間の「暴力性」を飼い慣らすためのシステムだ。


「人体は社会資源で人類共有のリソースである」


教育の根幹にその「ドグマ」を据えて、

「いじめ」も「争い」も「スクールカースト」もない、

そんなゆりかごの中で子供たちは育つ、


「酒」も「タバコ」も、

「ポルノ」も「スプラッター」も禁忌とされ、

そのような文化は全て過去の遺物とされた。

 

金太郎飴のように、

「全ての人」が「全ての人」を慈しむ。

「人類共有の資源」として慈しむのだ。


まさに「ユートピア

平和な世界だ。


だけれども、

人生を「質」にいれて、

互いが互いに「理想」を押し付ける。


見方によっては「ディストピア

そんな世界だ。


その世界に「異」を唱える3人の少女、

栄養阻害剤を服用して自死を図る。


そんなところから始まる物語、


「私の体は私のもの」


世界に逆らうには、

共有資源である自らの肉体を殺すしかないのだ。


3人のうち1人だけが逝ってしまった。

行けなかったことに対する罪悪感を持ちながらも、

生き残った2人はそれぞれの人生を生きる。


少女の自死から13年が経つ頃に、

ある事件が起きる。


見え隠れする、

死んだはずの少女の影、

物語は急速に進み始める。


「人類の進歩」


人類は文明の進歩とともに、

多くの危機を乗り越えた。

そしてその方向性は揺らぐことはない。


そんな進歩に対する「アンチテーゼ」

そんな小説だ。

 

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日本では若者世代の死因の第1位に、

自死」が挙がる。


福祉国家である北欧では、

バックパッカーになる若者が後を絶たないらしい。


人は「理由でを求める生き物」だから、

「ただ生かされていること」に耐えられないのだ。


便利になればなるほどに、

「生き方」は洗練されていく。

 

溢れ返る情報を元手にして、

選択しているようで選択させられている。

 

これだけヒントが散りばめられていたら、

行き着く答えは大差ないものだ。

 

そして、あらゆる角度から複雑な方程式を解き明かすことで、

「人間関係」までが洗練されていく。

そこに答えが出るのは時間の問題かもしれない。


新世紀エヴァンゲリオン』の人類補完計画

あれも似たようなもの、

人類の進歩に対する「アンチテーゼ」だ。


人類全体が「平和」という名の共通の目的に向けて収束していくならば、

もはや一つになるしかない。


「体の境目」も「人格の境目」もない。

ただ一つになる。

『ハーモニー』での結論はそこまではいかない。


だけれども、

人類の「理想」を突き詰めると、

どうしたってそういうところに行き着く。


あとはどこで折り合いをつけるかだ。


その折り合いのつける箇所が、

エヴァ」と『ハーモニー』では異なる。

ただそれだけのこと、


「人の習性は虫に近い」

「人は社会的動物」

「人は理由を求める生き物」


「人」とはなんなのか。


非常にロジカルに、

非常にテンポよく、

その限界ギリギリに挑戦した作品、


凄まじい衝撃を受けるとともに、

ページをめくる手が止まらなかった。


「キレイゴト」の先にあるもの、


もはや「文句の付け所のない」

そんな万人受けするような「キレイゴト」ですら、

疑ってかからなければならないのかな。

 

所々に散りばめられた、
ナチスドイツ」との対比は見事だ。


掲げる「お題目」如何に関わらず、

突き抜けた目的を与えられると、

「民意」の歯止めは効かなくなるのだ。


「人」「人」「人」


「人間」とはなんなのだろう。

そしてその集合体である「人類」とは、

いったいどこへ向かうのだろう。


そのような「問い」に興味があるならば、

必読の書だ。

 

「心にポッカリ空いた穴」から出て行ってくれないものが好きなもの

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ドラマ『#リモラブ』

その中で出てきた言葉、


人は誰でも心に穴が空いている。

空いたままでも平気な人もいれば、

家族や友人や恋人、

夢中になれる趣味でそれを埋めなければ、

生きていくことのできない人もいる。


その「空いた穴」に一度入ったら、

そこから出て行ってくれないものが、

好きなもの、


とのことだ。


私がよく書く「自尊心を満たす」という表現、

それと意味するものは同じだろうか。


今回のお相手、

私の「空いたの穴」にハマっている感じはしない。

疑問を持ちながら会い続けている。


それは相手にしたって同じこと、


あまりにも出会いがないものだから、

「この人を逃したら結婚できないかも」

そんな強迫観念で会い続けているのだと思われる。


彼女との予定を決めるときに、

しばらく間が空いたとしても、

自分の予定を変えてまで早く会おうとはしなかった。


去年の夏に現れて、

私の心を攫って行った「雨女さん」の時は、

会うまでが楽しみで仕方がなかった。


それはこの1年余りで、

私の心が枯れてしまったのか。

 

それとも今回のお相手に対して、

私の気持ちがそこまで強くはないのか。

 

おそらく後者だろう。


昨日も書いたけれど、

やはり私は彼女の「若さ」に惹かれているだけなのかな。

これでは男の「年収」に惹かれる女性と変わらない。


何とも不誠実なものだ。


どんどんハードルばかりが高くなる。

年を重ねることでチャンスは減る一方なのに、


私は何を目指しているのだろう。

ただ「結婚したい」のであれば、

相手を選ばなければできるのだろうか。


いや、私の性格上は無理な話だ。


私は結局、私のことが大好きだから、

自分が納得するような相手とじゃなければ、

関係を進めようとしないのだろう。


そして、気持ちを隠すことが下手だから、

気持ちが向いていなければ、

おそらくそれが相手にも伝わるのだ。


「とりあえず付き合ってみればいい」


散々言われて来たことだけれども、

私にはその能力がないのだ。

 

だけれども、

真っ直ぐな気持ちをぶつけた先に報われる。

そんな出会いはもうないのかもしれないな。


私は私のことを高く見積りすぎていて、

需要と供給が合っていないのかな。

 

みんな先に進んでしまっていて、

私の心が向いた女性たちと結ばれることは、

もはや叶わないのだ。


また何かしらの対策を打たねばならない。

私にとっての「恋愛」はまさに天敵だ。


そろそろ向き合うことをやめるのも、

いいのかもしれない。

 

おそらく私は、

「空いた穴」を埋めないままで生きていける人間ではない。

 

だけれども、

「空いた穴」を埋める手段は、

一つではないのだから、

「人として尊敬できる」と思うところが浮かんでこない

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「人として尊敬できる」

 

私がパートナーに求める条件として、

真っ先に思い浮かぶもの、


だけれども、

その条件を満たす女性には、

なかなかお目にかかれない。


今回会っているお相手にしたって、

結局私は彼女の「若さ」に惹かれているのだろう。


若い女性から恋愛対象として見られる」

そんな男としての自尊心を満たしたいだけなのだ。


だから私は相手の「えっ?」と思うような、

そんな「わがまま」に対しても、

「作り笑い」で包み込む。


「優しすぎて怖い」だとか、

「もっとわがままを言って欲しかった」だとか、

そんな別れ文句を言われたことがある。


私が我慢することで、

私は相手の気持ちをつなぎとめようとしているだけなのかな。


おそらく今回のお相手とは、

彼女が若くなければ、

3回も会うことはなかっただろう。


そう思ってしまうことが、

私の「不誠実さ」を証明している。


そのことを友人に話してみると、


「恋愛には「時」ってものがあるから、

ますをがその「若さ」を含めた相手に惹かれて、

相手も年齢を含めてますをに惹かれていればそれでいいんじゃないの。

生まれる「時」は選べないんだからさ。


ここだけの話、

俺だって奥さんと若い頃に出会っていたら、

絶対に結婚していないと思うよ。

年を取ってから出会ったから選べたんだと思う。」

 

だなんて、
そんな素晴らしいことを言われた。

 

だけれども、

心がつながっている感触がないのだ。


相手はきっと、

私のことを「結婚相手」として見ている。

 

今の環境に「出会い」は期待できないらしい。


若いのに極端に出会いがないらしく、

人付き合いは狭く深いタイプ、

 

メッセージにしても、

話していても、

あまり社交的なほうではなさそうだ。

 

だから私を逃したら、

「もう結婚できないかも」って、

そんな強迫観念が働いているのかもしれない。


3度目のデート、


先日記事にした、

「対面で食事をしているとき」

その時の彼女はちっとも楽しそうではなかった。


にもかかわらず、

次の約束はすんなりと決まり、

「次に会うのを楽しみにしている」

お互いそんなやり取りで終わっている。


私の中で、

そこに「違和感」が芽生えてしまった。


「このまま先に進んでもいいのだろうか」


急に鈍くなった返事のレスポンス、

相手も同じことを感じているのかもしれない。


私は男のくせに、

「察しが良すぎる」のかもしれない。

だから女性は居心地が悪いのかな。


何かをするたびに、

私に許可を取ろうとする彼女、


そのたびに笑顔で、

「気にしなくていいよ」

そう答える私、


「すみません」

と口にする彼女、


何かを強要するわけではないけれども、

態度に出てしまっているのかな。


デートの場所も行き先も、

サラダの取り分けから話題の選定まで、


相手が気が付く前に、

なんでも先にやってあげてしまうのだ。


エスコート」と言えばそうなんだろうけれど、

それが窮屈に思われるのかな。


女性が自立した時代だ。

そういうことは求められていないのかもしれない。


2度目のデートでは、

1度目にはしていなかったリップをつけていた。


3度目のデートでは、

2度目と同じ服装だった。


2度目は楽しみにしていたけれど、

もしかしたら3度目は、

あまり気持ちが乗っていなかったのかもしれない。


「次も楽しみにしています」


そこで終わっているけれど、

彼女との4度目のデートはあるのだろうか。


彼女の持つ

「飾らない魅力」

「ロジカルな物言い」

「あっけらかんとした態度」

そういうものに惹かれている面はあるけれど、


「彼女のどこを尊敬しているの?」


そう聞かれたときに、

すぐに浮かび上がるものがない。


私は彼女の「若さ」だけに惹かれていた。

そう結論付けた方が腑に落ちる。


どう進むのかわからないけれど、

私の恋愛はいつも「奇跡的に」うまくいかないのだ。


だけれども、

それは「必然」で私に問題があるのかな。


生じた「違和感」は、

私をどこに連れていくのだろう。


こじらせすぎて辛いよ。

 

「憎しみ」に時効はない

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例え別の何かで満たされたとしても、

その対象と関わり続けなければならない限り、

「憎しみ」は消えてはくれないのだ。


それどころか、

手を打たなければどんどん悪化する。

 

私と私が人として軽蔑しているあいつ、

 

今までは態度に出さないように努めていたけれど、

視界に入るだけでため息が漏れるようになった。


これでは完全に私が悪者だ。


だけれどもイライラを抑えることができない。

「生理的に無理」なのだ。


「始めの不誠実」からは、

もう3年以上経っている。


そこから相手の無自覚な悪意に苛まれている。

「無自覚」だから質が悪い。

 

もちろん必要最低限はこなすけれど、

私の「関わりたくない」という態度を、

取り巻きに言いふらして、

集団で精神攻撃をかましてくる。


私が不快な態度を示すたびに、

加害者のくせして被害者面をする。


まるで、

「私は何も悪くない」

「過去にこだわり続けているあなたが悪い」

「まだそんなものを手放せないの?」

「私はもうとっくに手放しているのに」

「あとはあなたの問題だから私には関係ない」

そんなことを示されているようだ。


実際のところは、

そこまで深くは考えていないのだろう。


多少の罪悪感は感じながらも、

ただ「少し気まずい」という程度、

 

居心地が悪いから、

周りに相談することで紛らわしているだけ、

 

だけれども、

そういうことをしたら、

周りが私にどう接するかまで考えていないのだろう。

 

詰まるところ、

私が一方的に敵視しているだけなのだ。

なんともバカらしい。


加害者は時と共に忘れることができる。

望むものは手に入れて、

悠々自適に過ごしているのだから、


被害者の傷はいつまでも癒えない。

彼女の存在自体が私の「惨めさの象徴」なのだ。


日に日に募る思い。


「早く私の前から消えてはくれないだろうか」

それを口に出したら終わりだ。


社会人として、

いや、人としてダメになる一方だ。

そんなことを考えながら仕事をしている。

 

もう私が出ていくしかないのかな。


満たされれば解消するだろうと思っていたけれど、

どうやらそういう問題でもないようだ。


「憎しみ」は過去にばかり向かっていく。

「過去」は変えようのないことなのに、


どうしたらこの感情を手放すことができるのだろう。

関わり続ける限りは無理なのかもしれない。


「憎しみ」を手放したい。

自分のために、


いったいどうしたらいいのかわからないな。

 

「#ラブタイツ」問題について思うこと

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まずは予防線を張っておく。


始めに断っておくが、

私はどちらかと言えばフェミニストだ。


それはこのブログを長く読んでいただいている読者様ならばわかるだろう。

以前にこういう記事を書いた。

 

tureture30.hatenadiary.jp

 

そのうえで今回炎上しているらしい、

「#ラブタイツ」問題に触れてみる。


あるメーカーが自社商品をPRするために、

セクシー?(実物を見るとなんてことはない)なタイツを履いた、

女性のイラストと共に「#ラブタイツ」としてTwitterに投稿したらしい。


それが「性的消費だ」

「タイツを履くだけでエロい目で見られる」

「女性向け商品なのに男に媚びた宣伝が気持ち悪い」

ということで、

界隈のフェミニストたちをにぎわせているようだ。


この「性的消費」という言葉、

ここ最近よく目にするようになったように思う。


どうやら一種の「バズワード」として、

フェミニストたちの合言葉になっているらしい。


自ら(フェミニストが女性だけとは限らないけれど)の「女性性」を、

不当に搾取されていることに対する憤り、

その「旗印」みたいなもの、

 

言わば、

フェミニストたちの「オルレアンの乙女」

そんなところだろうか。


先の記事に詳しく述べているけれど、

ジェンダー」に対する私の結論は出ている。

いたってシンプルだ。


「チーム対抗戦に持ち込むからおかしなことになる」

というもの、


「男チーム」と「女チーム」

大別すると人類には2つの大きな派閥がある。


時に、この派閥は国境や人種を超えて、

大きな力を持つことになる。


こと、「女チーム」に関しては、

女性の本能的なものからか、

「男チーム」と比較して結束力は強いみたいだ。


だけれども、

冷静に考えてみて欲しい。


自分が何かに属していないと不安だからってさ。

「チーム対抗戦」に持ち込む必要があるのかな。


詰まるところそれは、

「与党」と「野党」だったり、

アメリカ」と「中国」だったり、

それと同種の「権力争い」に与することになる。


そういうものを客観的に見て、

「そんなことはどうでもいいから全体に利する道を探れ」ってさ。


普段は冷めた目で見ているはずなのに、

いざ、自分が当事者になってみると、

俗にいう「権力争い」

それと同じことをしているのだ。

 

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人の攻撃性の源は、

「コンプレックス」にある。


きっと「性的消費」って言葉を好む人たちは、

「性的消費」に付随するような傷を抱えているのだろう。


私は「女性の不誠実さ」に傷つけられたからさ。

「女は信じられない」だなんて、

ひたすらそんな記事を書いていた時期もある。


だけれども、

書けば書くほどに虚しくなった。


「男としての自尊心」

それがズタボロだからってさ。


「女性を敵視すること」で、

「コンプレックス」を埋めようとしていたのだ。


「女は価値の低いもの」

だからそれから受け入れられなくても、

「自分の価値は下がらない」ってさ。


病理はそこにある。


「男は価値の低いもの」

だからそれから搾取されないようにして、

「自分の価値を下げてはならない」ってさ。


自分の所属する「チームの価値」

そればかりに執着して、

「個の価値」を見失っているんじゃないのかな。

 

「虚しさ」に気がついているのに、

「気が付かないふり」をしているだけなんでしょ。


傷口がまだうずくからって、

「そこに触れられないように」ってさ。

必死に威嚇しているだけなんでしょ。


フェミニストの一派」が目立つようになったから、

それに「対抗する勢力」なんてものもあるようだ。


激しい攻防を繰り広げているようだけれども、

それだって傍から見たら、

前述の「権力争い」と同じ構図だ。


「違和感」や「不快感」の正体は「ストレッサー」

自分の利に反していて、かつ見過ごせないもの、


言い換えれば、

自らの「居場所」を奪いかねないもの、

そんなところだろうか。


フェミニストたちをからかいたい」


そうやって突っかかる人たちも、

わざわざリスクを負って攻撃するくらいだからさ。

おそらくその源泉には「脅威」があるのだ。


「性的消費を許さない!」


いくら「権利拡大」のために躍起になったところで、

「女チーム」に属している人でも、

当事者以外の目は冷ややかなもの、

それどころか行き過ぎると反感につながる。


結局SNSの投稿なんて無責任なものだからさ。

攻撃を向けられた対象のことなんて考えていないんだよ。


面白おかしく攻撃に乗っかる人たちだってさ。

 

リアルに立ち返れば、

いつもと何も変わらない日常に染まる。


だけれども、

目の前の一人に対してならば、

「責任」が生じるものだから、

一方的に主張を押し付けたりはしない。


そして相手から、

その後を「見られる」ことになるわけだから、

言動や行動に変化が生じるだろう。


本気で主張したい「イデオロギー」があるのならば、

そこには「責任」が必要なんじゃないのかな。


それがあって初めて、

心からの「共感」というものが生まれる。


ジェンダー」に関する問題に限らないけれども、

現代人は手軽に自説を拡散できる環境に甘んじているんじゃないのかな。


自説が少しバズったからって、

インフルエンサー気取って、

それを「成功体験」として、

大事に大事に心の奥底にしまいこむ。


そうやって、

今にも消えてしまいそうな、

そんな脆い「自尊心」を維持しているのだ。


かく言う私も、

無責任にブログで自説を垂れ流しているだけなのだけれども、

 

もちろん企業側も配慮は必要だった。

そういうものを嫌悪する層が購買層なのだから、

 

みんながみんなに対して、

もう少し思いやりを持てたらいいのにね。

 

画面の先にいる人だって、

自分と同じように脆く弱い心を持った、

「人間」なのだから、