「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「生きるに足る理由」と「死に至る理由」

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鋭利な刃物で刺されて、

そこからさらに抉られる。

読むだけで「痛い」と感じる文章に出会うことがある。


その多くは「心の叫び」


声にすることは叶わないけれど、

誰かに届いてほしくって、

形として残された言葉たち、


誰かに届いたところで、

その言葉たちは役目を終えることはない。


「形に残す」ということは、

作った本人がこの世にいなくなったとしても、

残り続けるということ、


二階堂奥歯『八本脚の蝶』

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前に記事にしたけれど、

25歳でこの世を去った著者のあまりにも不器用に「生」と向き合う様、

身体的には「生きる」に事欠かない現代日本でこれほどまでに苦しむ。

その姿を想像すると容易に「死」を肯定できてしまいそうなくらいだ。


「生きた証」を残したかったのか。


彼女は自らの言葉でブログを締めくくるが、

閉鎖することはなかった。

彼女の文章は今でもネット上に残り続けている。


「生きるに足る理由」

 

危険な領域に踏み込むことになるけれど、

人は「死ぬ理由がないから生きている」


「生」を実感することなく、

「死」を実感することもなく、

ただただ時を重ねている。


「人生の大半は自由時間」


そういうCMがあった。

ライフステージが進まないと、

あまりにも自由な時間を持て余しすぎて、

「虚しさ」ばかりが募るようになる。


今の私は「生きる理由があって生きている」のか。

それとも「死ぬ理由がないから生きている」のか。

もはや、どちらかもわからない。


親に対する責任はあるから、

先に死ぬわけにはいかないと思うけれど、

その他に誰に対する責任があるわけでもない。


少し前に3人の子供を抱える友人が話していた、

「俺は子供たちのためなら何でもやるよ」という言葉、

なんとも「素敵な響き」として脳裏に蘇る。


コロナ禍が助長していることもあるけれど、

ライフステージが変わるにつれて友人との接点は減っていく。


一人で過ごす時間が増えたものだから、

実家に帰っては時折、姪や甥と遊ぶことで、

進まないライフステージの慰めにしている。


「何もない」


社会における役割はあるかもしれないけれど、

それは代替の効くものだ。


私でなければならない存在意義、

そういうものがあまりない。


異性として愛されることはなく、

パートナーに対する責任や、

親としての子に対する責任、


そういうものが全くないのだ。


幸い「楽しい」と思えることはあるけれど、

その何倍も「虚しい」と感じる時を耐える。


老後に向けてコツコツ蓄えて、

健康管理に時間を費やしてはいるけれど、

それも何のためだかわからない。


私は私の将来に何を望んでいるのだろうか。


必死に遅れた「恋愛経験」を取り戻そうとしてきたけれど、

出会いの数を重ねても関係が進むことはなかった。


もちろん臨む相手と結ばれる魅力がなかったのだろうけれど、

心の底から私がそれを求めていたのかもわからない。


売れ残った挙句に期待値ばかり高くなり、

妥協できないという悪循環、

私が求めているのは「自尊心を満たすこと」なのかもしれない。


相手の容姿やら年齢ばかりを気にしてさ。

もはや何を求めているのだろう。


文章が雑多になってきたな。

話を戻そう。


「生きるに足る」理由と「死に至る」理由、


深く考えるほど深みにハマる気がする。

月並みだけれども「気がついたらその日を迎えている」

そういう終わり方が理想なのかもしれない。


将来のことを考えすぎても悩みは尽きないし、

逆だと取り返しのつかないことになるかもしれない。


結局結論は出ないのだけれども、

「多くの人は理由があって生きているわけではない」

加えて「明確な意思を持って死を選ぶ人は稀有である」

その辺りは間違いなさそうだ。


何が書きたかったのかわからなくなったな。


とにかく今は次のステージに向けて生活を変える必要がある。

これまでと同じやり方ではいけないのだ。

 

そのことに必死になって、新たな居場所を確立すること、

それが今の私にとっての挑戦、

 

それが「生きるに足る理由」になるのかな。

 

「刹那的な快楽」に身を委ねることについて

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私は人と比べて「刹那的な快楽」とはだいぶ距離を置いた人生を歩んできたと思う。

 

私がたびたび書く表現の一つ、


「誰かを乏して自分よりも下に見ることで自尊心を満たす行いは、下の下の自尊心の満たし方」


この言葉は私の「信念」と言っても差し支えないところにまで、私の中での地位を高めている。


その上で、この「信念」に背くことなく「刹那的な快楽」に身を委ねるのであれば、

私にそれを否定する道理はないのかもしれないと感じた。

 

そのことについて述べてみたい。


「強く儚い者たち」

Coccoさんの楽曲に使われるこのフレーズが言い得て妙だと思い、当ブログでは多用している。

 

人は常に「生きるための理由」を探しているのだ。

それがなければとことん弱くなり、それでいて「その理由を守るため」ならば、とことん残酷にもなれる。

 

生きるために理由が必要な、どこかフワフワした生き物、

それが人間なのかもしれない。


他の生き物はさ。


ベースに「生存本能」があって、そのもとで刹那的快楽を求めて生きているのに「人」だけが違うのだ。

 

「生きる意味」「生きる価値」

「自分は生きていてもいいのか」だなんて考えてさ。

歪んだ地盤の上でバランスを取りながら生きている。

 

少しでもバランスを崩して転んでしまったら、そこから立ち上がるためには途方もない労力が必要、

 

身の安全は保証されていても、心まで満たされていなければ生きてはいけない。

そんな不安定な中で生きている。


だから「刹那的な快楽」


それが生きるために必要なピースであるならば、

それを否定することはできないのかもしれない。


「生きるために必要なもの」


それは人それぞれなのだ。

それを求めて、もがき苦しみながら生をつなぐ事、

それがキリスト教で説くところの「原罪」なのかな。


「命を繋ぐ」だけでは飽き足らず、

そこに「意味」や「価値」や「理由」を求める。


それを満たすために、あるいは抑止するために、

人は「社会」というコミュニティを作り、自らを「法」というルールで縛る。

 

人間だけがある意味では「身体的な弱肉強食」の世界から足を踏み出したのだ。


「社会」はさ。

「ルールを決める側」が損をしないようにできている。

「ルールを決める側」こそが強者なのだ。


それは変えることのできない構図、


飲酒だって性交だってドラッグだって、

法律によって年齢制限を設けられて、

ある地域では違法でも、ある地域では合法ということもある。

 

ルールが力を持つコミュニティに身を委ねることで、

人は自らを縛ると同時に安心を手にした。


だから、そのルールの中で「刹那的な快楽」に身を委ねること、

それは悪いことではないのかもしれない。


それでも私は冒頭に述べた信念に殉ずるのか。

それとも「生きるために必要なピース」を増やすためにそれを破るのか。


「私らしさ」というべきものに人生の価値を見出すのか。

それとも「楽しく生きる」とその日暮らしに身を預けるのか。


詰まるところ「どっちが正しい」と決めるわけではなくバランスの問題なのだろう。


「誠実」と「不誠実」の狭間で揺れながら、

最後は過去を肯定することで「生」をつなぐ生き物、

過去を否定してしまったら生きてはいけない生き物、


それが人間なのかな。

 

「正しい生き方」なんてものは、

死を迎えるその時までわからないのだろう。

「人類の行く末に希望を持つ」ことの大切さ

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誰かの「居場所」となること、

それと同時に誰かが「居場所」であること、

それは人が「生きるため」に十分な理由となる。


不安の渦巻く世の中だから、

どこか未来に希望を持てない風潮が蔓延る。


そうなってくると、

自らの行く末や、子孫がいればその行く末、

そういうものに対して悲観的になってしまう。


どれだけ悲観しても先のことはわからない。


世の中に溢れる未来に対する報道、

それが確かな証拠はどこにもないのだ。


それなのに、何処か刷り込みのように、

人は未来を悲観して、

どこか疲れたような表情をして、

将来への準備にばかり躍起になる。

 

今使えるお金をせっせと後ろ倒しにして、

未来への不安を解消するために使う。


積み上がる数字の魔力に魅せられている部分もあるのかもしれないけれど、

未来に対して明るい見通しを立てられれば、人はそうした行動には進まないだろう。


いや、積み立て投資に関しては逆も言えるのか。

株価が上がる見込みだからこそ経済に投資する。

そういう見方もあるけれど、この際それは置いておこう。


「不安」は人の感情を逆撫でる。

考えれば考えるほど「不安」は押し寄せてくる。


それは人の本能だ。

自己防衛本能からくるもの、

だからある程度は仕方がないのかもしれないけどさ。


遠い先の未来に対しては、

出来るだけ「希望」を持ち続けて生きたい。


自分だけが逃げ切れれば良いのかな?

自分が生きている間だけ地球が保てば良いのかな?

そんな生き方はまっぴらだ。


企業がこぞって掲げる社会貢献の実績、


なぜ掲げるのかというと、

「掲げること」に利があるからだ。


今の若者たちは社会貢献に対する関心が強い。

仕事を通して社会に「価値あるもの」を提供したいという気持ちが強い。


若者たちと接していてそう感じる。


「最近の若者は」だなんて、悪い意味で言われることが多いけれど、

「自分がいる間だけ逃げ切れれば良い」と考えている年寄り達よりは、若者たちは余程未来のことを真剣に考えている。


「死」に怯えてばかりで、

命を先延ばしにすることばかりに躍起になる。


「命」は大事だけれども、

その「命の使い方」

それも同じくらい大事なんじゃないのかな。


もっと未来に目を向けてさ。

自分がいなくなった先にまで目を向けてさ。

そこに対して「希望」を持ちながら生きるということが、大切なんじゃないかな。


そうじゃないと、結局は「独りよがり」で終わってしまう。

 

「自分さえ良ければいい」って生き方、

そういう人生になってしまう。


何を成せるわけではないかもしれないけれど、

「人類の行く末に希望を持つ」


ちゃんと人として生きる上で、

それだけは忘れてはいけないんじゃないのかな。


私はそう在りたいと思う。

 

大したことはできないかもしれないけれど、

私は最後までそう在りたいと思う。

 

人生における「非機能要件」について思うこと

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言語化しにくいけれども重要な条件、

数字には表しにくいけれども重要な条件、


そういうものはいくらでもある。


便利な「アプリ」がリリースされたとしても、

ボタンを押した時のレスポンスが悪かったり、しょっちゅうサービスが落ちていたり、

挙句の果てには某コンビニの決済サービスのように情報が抜き取られるようなことがあれば、

その「アプリ」は使われ続けることはないだろう。


多くの人は「なんとなく使いにくい」だとか、

「なんとなく気に入らない」だとか、

そういう「非機能要件」に囚われて生きているのだ。


理由を突き詰めれば言語化できるかもしれないけれど、

それをするためにはとても手間がかかる。


だから「なんとなく」気に入らない。

「なんとなく」合わない。

「なんとなく」一緒にいて疲れる。

そうやって人間関係を取捨選択しているのだ。


「非機能要件」


逆にそれをはっきりと言語化して突き詰めていけば、

自身の傾向を掴むことができるのかもしれない。


おそらく私はブログを通してそういう作業を続けている。


日常に蔓延る「なんとなく」

それを拾い集めて記事にしているのだ。

そうやって「なんとなく」を分解して、その成分を調べて自分に還元する。


私の中のブラックボックスを減らしていく作業、

私にとってのブログ執筆はそういうものなのかもしれない。


だけれども、明らかになったところでどうしようもないこともある。

私は私のことを解明していくたびに、かえって可能性を狭めているのかもしれない。


「なんとなく」で済ましていれば我慢できていたものを敢えて言語化することによって、曖昧なままでは済まなくしてしまう。


定義付けするほどに融通は利かなくなる。

そんな汎用性の無い人生はあまり面白いとは思えない。


「なんとなく」一緒にいて楽しいから一緒にいる。

「なんとなく」居心地が悪いから飛び出してみる。

 

「なんとなく」「なんとなく」「なんとなく」

それでいいんじゃないかな。


私は自分の人生に制約を設けすぎているのかもしれない。

自分のブラックボックスを解明することで自分を縛り付けているのかもしれない。


何度も書いている言葉だけれども、

「信念」とは「諸刃の剣」なのだ。

時には自分を傷つけることもある。


「自分らしさ」というものを定義付けようと躍起になって、

「信念」というものに殉じることだけが美徳ではない。


「なんとなく」「なんとなく」

そういう汎用性が安心感を生むことは多いだろう。


私は男からはモテる。

おそらく男は輪郭のはっきりしたものを好むからだ。

自己開示をしないよりも、したほうがメリットが大きいと考えている私の性格はわかりやすいのだろう。


だけれども「なんとなく」の世界で生きている人には、私の性格は受け入れられないのかもしれない。

 

多くの女性はそっちの方なのだろう。

だからそういう女性たちは、ともに過ごす時を重ねるにつれて私から離れていく。


だからと言って、あまりそれを変えるつもりはない。

 

「なんとかなる」だとか「考えすぎ」だとか言って、ぐいぐいと私を振り回す。

そんな、ブレーキかけずに突っ込んでくるような女性とは逆に相性がいいように感じる。

 

「なんとなく」を言語化していく作業、

私はそれが嫌いではない。

だけれども、相手にそれを強要するつもりはない。

 

それでいいのだ。

バカボンのパパもそう言っている。


結局、私は「なんとなく」を解明するために書き続けることになるのだろう。

 

それが「私の人生」なのかもしれない。

 

SNSに潜む危険「エコーチェンバー現象」について思うこと

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「エコーチェンバー現象」

ここ最近よく目にする言葉だ。


自分の中にある意見に対して「共感」が集まることで、その意見に対する認識は自分の中で「正義」だという方向へと増幅されていく。

 

その後はその意見を肯定する材料ばかりを探し、その意見を肯定する人たちとばかり付き合うようになり、その意見が「アイデンティティ」へと進化していく。

 

これが「エコーチェンバー現象」

 

行くところまで行ってしまうと、「正義」のためならば他人を攻撃しても構わないという思考へと陥るのだ。


そこに至る過程を想像してみる。


人は「居場所」を求めてSNSに没頭する。

だからそこで目にした意見を自らの価値観に照らし合わせて評価する。


その評価が「意に沿うもの」であれば「共感」が生み出される。

その「共感」という名の「おやつ」を食い漁ることで満たされて「居場所」は生み出される。


意見を同じくするものばかりの集まりだから、その「居場所」では批判に晒されることはない。

その関係は互いが「共感」という名の「おやつ」を与え合って「居場所」を確保することが目的なのだ。


進むところまで進んでしまうと、どんなに反社会的で非道徳的で合理性を欠いた主張に対しても「共感」が集まるようになる。

 

「共感」という名の「おやつ」を与え合うことで作り上げられたコミュニティ、


「主義・主張」などハッキリ言ってどうでもいいのだ。

そこに「居場所」があって、自分は正しいという実感がある。

それが全てだ。

その魔力はすさまじい力で人を惹きつける。

そうやって人は「狂っていること」にも気がつかなくなる。


「居場所がない」ことは辛いからさ。

仮にそれが「悪」だとわかっていても「居場所がない」よりはマシだからさ。

人は「居場所」を求めてどんどんハマっていくのだ。


「自分の人生を質に入れること」

 

それで「居場所」を見いだすというのは人間の弱さだ。

そこに「病理」があるんじゃないかな。


何かに所属することで得られる充実感というものは確かにあるけれど、そこに傾倒しすぎると人生を誰かに委ねていることになる。


何かに「所属すること」自体を否定するつもりはないけれど、あまりにも軸足を置きすぎるのもどうかと思う。


何物にも属さない単体としての「自分」を肯定できるようになること、

自分で作った「ものさし」をもつこと、


それが大事なんじゃないかな。


「居場所」がないと今にも消えてしまいそうに弱ってしまうのに、

「居場所」を守るためならば悪魔にもなれる。

 

人を蹴落として、人を食い物にして、それで勝ち取った居場所、

それは仕方のない部分はあるけれど、そこに対して葛藤すらしなくなる。

 

それを当たり前だと思って、心を麻痺させて、自らの欲望を満たすことに夢中になる。

 

多くの人は生まれながらにしてそうじゃなかったはず、

 

傷ついて、傷つけて、

人の悪意に晒されて、自分の悪意を正当化して、

 

そういう作業を続けているうちに、

いつしかそれが「当たり前」になってしまうのだろう。

 

「みんなやっているから」

 

「社会」という名の宗教、

誰もが気付かぬうちにそれに所属しているのだ。

 

人はなんて「強く儚い生き物」なんだろうね。

マスコミがバカだと思う

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東京オリンピックパラリンピックについての一連の報道を見ていると、ただ面白おかしく騒ぎ立てて収拾つかなくさせるのがマスコミの仕事なのかと思う。

 

それぞれの主義主張があるのは勝手、

犯罪さえ犯さなければ中止を求めるデモでも何でもやればいい。

それがその人たちの「正義」で生きがいなのだろうから、

 

バッハ氏の歓迎会もやればいい。

大会を行う以上は「不要不急ではない」と判断されてしかるべきだろう。

飲食を伴わないものだったようだし、むしろ模範の対策を行ってそれを広く喧伝するくらいのことをすればいい。

 

海開きだってすればいい。

県外への外出だってすればいい。

もはや「行動制限」に頼るのは限界なのだ。

 

自粛要請を始めて1年あまり、

その影響は「善悪」を超えて「生き方」に関わるレベルまで来ている。

特に学生に対する影響は大きく、二度とはない経験に対する機会損失へと繋がっている。

見方によっては「基本的人権の尊重」に抵触するくらいだ。

 

ここまでくるともはや自己責任、

国としてやるべきことは「行動制限」ではない。

「制限を緩和したうえで感染拡大を防止する」ということ、

どうも他国と比べてそういう視点がないように思う。

 

「命の重み」

 

命は確かに大事だけれどもさ。

その「命の使い方」も同じくらい大事、

 

感染リスクを負ってでも、せざるを得ない行動があるのであれば、それはその人にとっての「命の使い方」

それを制限することは、もはや難しい時期を迎えているのだ。

 

何でもかんでも否定するマスコミ、

元凶はそこにあると思う。

 

「負の感情を煽ること」で人の関心を引く。

それで数字をとって時事問題を食い物にする。

 

「政府がこんなバカなことをしている」

「行楽地は人であふれている」

「デモなんて奇怪なことをしている」

 

報道の自由表現の自由を盾にして、

何の信念も持たない傍観者、

 

ただ「数字が取れればいい」

自分の利益しか考えていないのだ。

 

「コロナ禍」でネタには事欠かないし、自粛でおうち時間が増えたものだから、

テレビ局はたいそう景気がいいんだろうね。

 

それぞれの立場で大変な思いをしている人たちを食い物にして、

何でもかんでも揚げ足とるように引っ掻き回してさ。

 

いつでもただの「傍観者」

バカらしくて仕方がない。

 

ここ最近はワイドショーをバカらしくて見ないようにしている。

「いいとも」の枠に収まった番組が特に嫌いだ。

 

芸能人がワイワイ楽しくゲームでもやっていた「いいとも」のほうが何百倍も価値がある。

 

テレワークだと昼休みにテレビをつけるけれど、ワイドショーには辟易する。

なんだか世相とは関係のないエンタメ系の企画ばかりを見るようにしている。

 

いかにも自分たちが「正義」で、批判する対象は「悪」なんだって、そんな独りよがりな姿、

 

マスコミが過剰に騒ぎ立てて、国民感情を煽って、負の連鎖を生み出している。

それにもかかわらず「報道する側」は、いかにも「正義面」をする。

この構図は何なのだろうね。

 

組織ってものは恐ろしい。

 

個々人は「人を食い物にしている自覚」すらないのだろう。

会社の指示でしているだけ、

そうやって、人は「罪悪感」を薄めることができるのだ。

 

個人が情報を取捨選択する時代、

知らず知らずのうちに検索情報は蓄積されていき、

趣向に沿ったものばかりが目に付くようになる。

そうやってバイアスは加速して取り返しのつかないところまで行くこともある。

 

マスコミの報道も同じなんじゃないのかな。

 

人は「経験を信仰する生き物」だから、触れた回数の多い情報ほど信ぴょう性が高いと信じ込む。

そうやって「世論」というものが出来上がるのだ。

社会主義国家のやり口なんかはこれが肝になる。

 

最も国益(国民の利益)に反する存在がマスコミなんじゃないか。

 

誰かの足を引っ張ることがお仕事、

もっと他にやることないのかな。

なんだかそう思う。

 

「ジャッジする側」も覚悟を持って臨むことの大切さ

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ここ最近の私は「ジャッジされる側」だった。

採用面接を受けていたのだから当たり前のことだ。


普段は仕事柄「ジャッジする側」に回る機会もある。


何気なく「ジャッジすること」に慣れてしまっていたものだから、

改めて「ジャッジされる側」に身を投じて感じたことを述べたい。


まずは「ジャッジする側」の覚悟、


先日ある製品の営業を受けた時に、一通り説明を受けた後、私はその製品に対するジャッジを行った。

 

その時に先方からその理由を尋ねられて、テンプレのように当たり障りのない説明をした。

そうしたら先方は、若干食い気味にさらに突っ込んだ質問をしてきて、私の本音を引き出そうとしてきた。


「なるほど」どうせダメならナレッジ化するために本音を引き出そうという意図か。

そう思ったけれど、その熱意に与するように私は洗いざらい本音を語ったうえで「検討の余地はある」ような匂わせをしてその場を終えた。

相手からすれば0から0でないものを引き出せたのだから御の字だろう。

当の私もどこか心地の良さを感じていた。


そこで感じたこと、

「ジャッジする側」は「ジャッジされる側」から刃を突きつけられる可能性があるということ、


私はそういうスリリングな展開が嫌いではないので「心地よさ」を感じたけれど、安穏とその場に望んでいたら面食らってしまうことになりかねない。

「ジャッジする側」にも覚悟が必要なのだ。


翻って、私が「ジャッジされる側」として感じたこと、


経験が不足している部分についてはその場で埋めようがないけれど、概ね当たり障りなく質問に対する返答を続ける。


経験・スキルを問うものから、ビジョンを問うものまで、限られた時間の中で粗を探すような質問が飛んでくる。


突拍子もなく時事問題に対する意見を求められた時は面食らったけれど、「模範的な回答ですね」と言われ一件落着に収める。


「最後に質問はありますか?」ときて私のターンだ。

採用する側は当然良い面ばかりを前面に押し出して求人を行うため、本音を引き出すことが肝要と考えた私は、「社風と業務内容に限定して強みと改善点」を聞き出す。

その返答に対して2,3質問を重ねると懸念すべき点が見えてくる。


「製品」は売ればそれで終わりだけれども、「自分」は売った後でその先に身を晒すことになる。

安易に「売ります」と答えることはできないのだ。


私が覚悟をもって若干立ち入ったことを質問すると、相手も覚悟をもって本音を話してくれる。

そういう構図は自分が「ジャッジする側」でも「される側」でも変わらないのだなと感じた。


せっかくのいわば「商談」の場、当たり障りのない対応ばかりしていると、なんだか時間を無駄にしたような気になってしまう。

どうせお互いに貴重な時間を割くのであれば、触発し合ったほうがいい。


単に「売り買い」だけが目的ではないのだ。

 

人生を楽しむためには「主体性」が大事、

目の前のことに覚悟を持って臨むことができれば、もっと日常は楽しく映るのかもしれない。

 

仕事への態度、

生活への態度、

友人への態度、

 

まだまだ生活を充実したものに変えられる。

そのためには「覚悟」が必要なのかもしれない。

 

先日、1日に一度は「不快になること」を自らに課したほうがいいとの記事を読んだ。

 

筋トレでもランニングでも、冷水浴でも、達成感のある負荷をかける習慣を身につけることで、イザと言うときに一歩を踏み出せる。

 

やはり「主体性」というものが大事なのだ。

それは「生きがい」にも繋がってくる。

 

ジャッジする側でも、される側でも、

私は私の人生を生きるのだ。

 

大変だとしても、

それが楽しく生きるための秘訣、