「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

【プロ野球2022】スワローズが強過ぎてファンも引く

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交流戦優勝した後に、

カープのエース級相手にこちらは裏ローテで3連勝です。

しかも若手とベテランどっちにも火がついて、

内容的にも申し分のない勝利でした。

 

これで交流戦から8連勝!

10カード連続での勝ち越し!

2位の巨人とは9ゲーム差を維持しています。

 

勝率.672で貯金22です。

全てのカードを2勝1敗以上勝っているペースですからね。

 

巨人と星取りを同じペースとして、

オールスターまで巨人との直接対決3カードを4勝5敗以上であればマジック点灯ですね。

すでにこの時期で、よほど大崩れをしなければ、リーグ連覇が見えています。

 

流石にファンも勝ち過ぎて引きます。

 

ゆとりローテでリリーフも酷使せず、

シーズン半ばにして投手の消耗度は12球団トップクラスに低いです。

さらに野手は若手を育てながら勝っています。

 

間違いなくプロ野球チームとして理想の戦いを続けている今年のスワローズ、

黄金時代の到来を予感させるレベルの横綱相撲を演じています。

 

一昨年までは2年連続での最下位、

そこからリーグ連覇となれば、もう2度と起こらないアンタッチャブルレコードかもしれませんね。

そこでは留まらず、2年連続での日本一となれば尚更です。

 

強すぎるスワローズ。

私が物心ついた頃のスワローズは強かった。

野村ID野球での黄金時代です。

それでも2年連続での日本一はありませんでした。

 

今年のスワローズは、交流戦での圧倒的な成績を見ても、現時点で日本一に最も近いチームです。

 

野村ヤクルトのDNAを引き継いだ高津監督。

彼の率いるチームが、2連続日本一を皮切りに黄金時代を作り上げるのかもしれませんね。

ファンとしては楽しみで仕方がありません。

 

まだまだ半分も終わっていないシーズン。

今後の展開はわかりませんが、今年のスワローズには現時点から日本一を期待してもいいのかもしれませんね。

 

まだまだ伸び代はあります。

サンタナと奥川が戻ってきたら、もう一つ層が厚くなるでしょう。

 

今年のスワローズは強い!

いや、「今年も」強い!

スワローズの熱い夏が始まります!

 

「一緒に走る」ということ

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私のこれまでの経験からして、

誰かと「一緒に走る」ということは、

自由気ままなランニング活動に少しばかりの制約をもたらすものだと感じる。

 

ペースを合わせないといけないし、

走る目的が少し違ったりもする。

だけれども、走り終わった後の爽快感を共有できることは間違いない。

 

ここ最近もよく感じることなのだけれども、

「人は人の中にいることで満たされる」のだ。

 

誰かと些細なことを共有したり、

些細なものでも「自分に居場所がある」と感じるだけで、乾き切った心に潤いが与えられる。

 

「道具として人を見てしまう心の弱さ」

その連鎖が不幸を生み出すのだ。

 

お互いが「心を通わせそう」と努めることで、

それだけで世界は優しくなれる。

 

そのために必要な共同作業。

その中の一つに「一緒に走る」というものがあるのかもしれない。

 

息を切らして、苦しみに耐えて、それに耐え切り目標を達成した時の爽快感。

そこには、ある種の仲間意識が芽生えるのだろう。

 

仕事も同じ、家庭も同じ、

苦楽を共にすることで芽生えるものがある。

そこには、言葉では言い表せないような居心地の良さが生まれる。

 

詰まるところ「苦楽を共にした経験の共有」

そこに帰属意識の本質があるのかもしれない。

 

だから、割り切った人生は虚しい。

多くのものを求めて、そのためにたくさん動いた方がいい。

 

一歩を踏み出さなければ、波風が立つことはない。

一歩を踏み出したからこそ、苦しみも喜びも生まれるのだ。

 

「命の使い方」

 

何度も書いていることだけれども、

私はそのことに思いを馳せ続ける人生を生きたい。

 

私は今、走り続けている。

ランニングだけではない。

「人生」という長い旅路を走り続けている。

 

そして、一緒に隣を走ろうとしてくれている女性がいる。

それだけで私の人生は大きく変わるはずだ。

 

一緒に走る相手は決まりそうだ。

 

だから、どこを走るか。

何を目的として走るのか。

もう少し、しっかりと考えたい。

 

考えなければならないことはたくさんある。

それが今の私に課せられた課題だ。

 

今は足を止めるわけにはいかない。

ブログに自分のことを書けない

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傾向としては、あまりよろしくない。

ブログにかける時間が足りないのだ。

 

いや、足りないことはないのだけれども、

「クリエイティブな方向に使う脳内スペースが足りない」

そんな表現が適切だろうか。

 

私は、ブログをアウトプットの道具として使っている。

 

日々、目まぐるしく動いているものだから、

インプットはたくさんしている。

それをアウトプットする時間が減るということは、

単純に私の過ごす時間が薄っぺらいものになってしまうということになる。

 

皆様のブログを拝見する時間も減っている。

これもまずい傾向だ。

リアルな人間模様に触れて、シンパシーを感じたものにコメントを残す。

これも立派なアウトプットだ。

 

私はブログ以外に、あまり感情をアウトプットをする習慣がないものだから、

総じて、私の人生からアウトプットが失われたことになる。

 

ここ4年ほど、私は毎日ブログを書き続けてきた。

それを習慣にすることで、滴る雫に穿たれた岩のように徐々に、私の人生は少しずつ形を変えて行った。

 

そして、少し前に、その積み重ねにより岩にヒビが入ったかのように、私の人生は大きく形を変えた。

 

私は書き続けることで、私のことを監視し続けてきたのだ。

だから、些細な変化も掬い上げて、それを人生に還元して行った。

 

今や、私にとってブログを書くことは、ライフサイクルの一つに組み込まれている。

 

しかし、今は余裕がない。

今の私の心情を正しく書き綴ることは難しいから、自分の外の世界に頼って記事を書いている。

スワローズの記事はその最たるものだ。

 

私は今、何を考えて、何を感じて、何を求めて生きているのか。

これまで散々書き続けてきたものが、今は書けない。

 

私の頭の中にいる三歳児が、しまっていたおもちゃを片っ端から引き摺り出して、お好きなようにとっ散らかしているかのようだ。

 

私は環境の変化についていくことができていないのかもしれない。

それほど大きく、目まぐるしく動いている。

 

粘り強く、我慢強く、感情を波立たせないように心がけながら、今は淡々とタスクをこなしていくしかないのかもしれない。

 

私は私の人生を進めるために、今は心を殺してやるべきことをただやり続ける。

それを課せられているのだ。

 

だから脳内リソースに余裕がない。

だからブログで自分のことを書くことができない。

おそらくそういうことなのだろう。

 

理由がわかったから、ひとまず安心した。

やはり、書くことは大事だ。

私はこれからも書き続ける。

 

頭の中に書くべきことがあるうちは、、、

ということになるが。

ドストエフスキー『罪と罰』

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年末のまとめ記事にも書いたけれど、

おそらく昨年読んだ本の中では一番印象に残る作品だ。

tureture30.hatenadiary.jp

 

久々の書評だ。

筆を執らずにはいられない力のある作品だった。

 

読んでからあまり日が経っていないから、記憶として残りやすいのは当たり前と言えばそれまでだが、ものすごく力のある作品であることに疑いの余地はない。

 

終始、陰鬱な雰囲気に包み込まれているが、

最後に「希望」がある。

 

その「希望」は人類にとって根源的なもの、

もしかしたら、この世の誰もがその「希望」を求めて、もがき苦しみながらも生を紡いでいるのかもしれない。

そう感じさせる作品。

 

光文社の亀山郁夫訳を読んだ。

 

一昨年は、亀山訳で同著者の『カラマーゾフの兄弟』を読み、かなりの衝撃を受けたものだから、次は『罪と罰』も、と思い手を出した。

 

やはりドストエフスキーはすごい。

思想犯として投獄され、シベリアで「生き死に」と向き合い続けたからこそ書ける文章の厚みがある。

 

未完の遺作となった『カラマーゾフの兄弟』のテーマは「自分の人生を愛するということ以上に、人生において重要なことはない」

そして『罪と罰』のテーマは「自分の人生に責任を持ち続けること」

 

私にはそう感じられた。

 

不思議なことにドストエフスキーを読んでいると、漫画『HUNTER × HUNTER』の描写が浮かんでくる。

おそらく作者である冨樫義博氏はドストエフスキーから大きな影響を受けているのではないか。

 

どこにもソースはないため、妄想にすぎないが、ある種のアプローチを重ねて、人生の本質について考え抜く先に、人はドストエフスキーにたどり着くのかもしれない。

 

例え、どのような境遇に生まれてきたとしても、どのような理不尽な目にあったとしても、自分の人生の責任を取れるのは自分だけ、

 

私はブログにそういう趣旨の記事をいくつか書いてきたけれど、本書はそれの裏付けというか、壮大な前振りを構えて、エピローグでそれを証明する形のスタイルだ。

 

「人間の醜さ」をとことんうまく描き出す。

その点でドストエフスキーの右に出るものはいない。

 

その境地に至るまでには、彼自身がどれだけ「己の醜さ」と向き合ってきたのだろう。

そして、どれほど人類の未来に対して絶望していたのだろう。

 

それでも彼は希望を見出すために筆を取り続けた。

カラマーゾフの兄弟』のラストでは、人々はハレルヤと叫びながら、宿命に翻弄された「カラマーゾフ家の人生」を祝福する。

 

死を目前にして、ドストエフスキーは人類の未来に希望を見出せたのだろう。

 

陰鬱な彼の作品群、

最後は『カラマーゾフの兄弟』に繋がると思うと感慨深いものがある。

 

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人は考えれば考えるほどに不幸になるのかもしれない。

答えの見つからない体と向き合い続けて、もがき苦しみながら生きていくことになる。

動物的本能に従って生きていれば、ある意味では幸せなのかもしれない。

 

高潔な精神を持つ、『罪と罰』主人公の妹であるドゥーニャ、そして『カラマーゾフの兄弟』3男であるアリョーシャ、

その姿にドストエフスキーの考える「人としての理想」があるとするならば、「無垢でありながら悪に染まらない」

そんなある種の動物的本能への回帰を彷彿とさせる。

 

人は自らの身を守るために、狡猾に人を陥れるのだ。

その醜さにまみれて時を刻んでいく。

それでも人生には希望がある。

 

人は、とことん地獄を見たとしても、奈落の底に突き落とされたとしても、「希望」という一筋の光を信じ続ける限りは救われるのだ。

ソーニャのラスコーリニコフに対する愛は、「神の慈愛」を象徴しているのだろう。

 

「愛の持つ力」を信じ続けて筆を執ったドストエフスキーの精神は、後世に大きな影響を与えている。

 

それでいて、彼は「神なき世界において、人はどう生きるべきなのか」という、壮大な問題提起をしている。

 

人の持つ力、愛の持つ力、

昨年私が掲げた目標の一つに「人類の未来に希望を持ち続けたい」というものがあった。

 

それはコロナ禍でなかなか希望を見出せない状況に端を発したものだったと記憶している。

 

そして今はバイオレンスな面で希望を見出しにくい状況だ。

ウクライナにおける戦闘が一刻も早く収束することを願う。

 

どんなに過酷な状況であっても、人類の未来に希望を見出す、見出し続ける強さ。

人類は、その強さをドストエフスキーから学ぶべきなのかもしれない。

 

紛れもない世界的名著だ。

結局は人とのつながりで「満たされる」

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「自尊心を損なわれるようなこと」が続いていたから、

しばらくは常にイライラしながら過ごしていたのだけれども、

人とそれを共有することで、それが軽減された。


「私も単純なものだな」


色々なことを難しく考えて言語化することで、

感情をコントロールしているつもりになっていたけれど、

結局のところは「一人でできるコントロール」なんてたかが知れている。


人の気持ちというものは、

人とのつながりの中で「満たされる」ものなのだ。


「必要とされている」


そんな実感に触れられることで、

人は「居場所」を獲得する。


その「居場所」が不確かなものになるから、

人は不安を感じるのだ。


結局はそれぞれがどこかに「居場所」を確保すること、

それ以上の「精神安定剤」は存在しないのかもしれない。


「居場所」が確かになると、

人は「領土」を広げだす。

それを広げれば広げるほどに「自尊心」は満たされる。


「生きる」ってことはさ。

「居場所」の奪い合いなのかな。


BUMP OF CHIKCEN『カルマ』


ガラス玉一つ落とされた 落ちたとき何か弾き出した

奪い取った場所で 光を浴びた


存在が続く限り 仕方ないから場所を取る

ひとつ分の陽だまりに ふたつはちょっと入れない


心臓が始まった時 嫌でも人は場所を取る

奪われないように 守り続けてる


この曲の終わりはこう結ばれる。

「僕らはひとつになる」


「居場所」を奪い合いながらも、

どこかでつながっている。


相手の「醜さ」を見て感じる安堵、


「自分だけではないんだ」って、

「カルマ」を共有することで得られる安堵、


個体は別々に分かれていても、

我々は根っこの部分ではつながっているのだ。


同じように不安を感じ、

同じように苦しんで、

同じようなことで悩みながら生きている。


だからこそ「わかりあえる」のだ。


「権利」ばかり主張してさ。

「居場所」を守ろうとして傷つけてさ。


「居場所」が奪われたと途方に暮れてみたり、

「居場所」がありすぎて手に負えなくなってみたり、


面白いものだね。

人間ってものは、


心から満たされる空間が一つあればいい。

だけれどもそれもいつまでも続くとは限らない。


どこにいたとしても、

誰といたとしても、

たとえ手足を縛られていたとしても、

調和の取れた空間を作り出す技術、


それが「悟り」ってやつなのかな。


そこに至るには程遠いけれど、

せめて居心地の良い場所の一つくらいは、

しっかりと確保しておきたいものだ。

 

あいみょん『双葉』

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先日のライブで聴いて、

とても良いなと思った曲。

 

18歳の若者向けイベントのために作られた曲のようだ。

あいみょんも30に近づいてきて、多くの楽曲提供をする側になっている。

そう考えると、アーティストとしては早くも円熟期に入っているのかもしれない。

 

「恋の素晴らしさ」を大人の立場から子供に伝える曲だ。

それでいて、それを伝える当人も「みずみずしさ」を失っていない。

なんともバランスの取れた心地の良い曲だ。

 

「可愛く揺れなよ双葉」

 

あいみょんの共感力は凄まじい。

あらゆる立場で詩を書くことができる。

 

恋の渦中に身を置きながら「恋っていいものだよ」

と語りかけるお姉さん。

心の底から「恋が良いもの」だと思えていないと書けない歌詞だ。

 

 

あいみょん『双葉』

「家族」として接してくれる

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「ますをくんは、私にとって、もう家族だから」

ふと、彼女がそう言った。

 

彼女からしたら、

私はすでに「家族」と同じ扱いらしい。

 

もう少し恋人気分を味わいたい気持ちがあったものだから、それはそれで寂しい気がするけれど、

その言葉を聞いて、私も彼女のことを「家族」として見ようと思った。

 

経済的な面では「どうせ結婚するのだから同じ」と、デート費用のほぼ全てを私が払っていた。

だけれども、心理的な面では、私はまだ彼女のことを「家族」として見ることはできていなかった。

 

彼女の一言は、それを私に気づかせてくれた。

 

これから先、一緒に生活することになる。

そのことを漠然とは意識していたけれど、深く考えてみると、あまり実感は湧かない。

改めて、気持ちを深めていく必要があるのだろう。

 

その辺りの覚悟は女性の方が強い。

そして現実的だ。

 

彼女からしたら、私を逃すわけにはいかないのだろう。

そんな強い意志を感じる。

 

かと言って、結婚相手という割り切った関係ではない。

時には彼女の方からベタベタくっついてきたり、

「私の心はますをくんに落とされた」だなんて、

会話の最中にドキッとする一言を混ぜてくる。

 

それも私を逃さないための計算かどうかは知らないけれど、

彼女が意外と尽くすタイプで、私に尽くしたいと思っていることは、その言葉や行動の端々から感じ取ることができる。

 

「恋愛は、美しい誤解であり、結婚は、惨めな理解」

そんなことを言っていた人がいたけれど、今の私たちはまだ、お互いの素敵なところばかりを見ているのだろう。

 

一緒に生活を始めたら、嫌でもこれまでに見えなかったところが見えてくる。

それでも、先に進むという選択をしたからには、擦り合わせをしながら、共に生きていくことになる。

 

今は「誤解」に身を任せながら、とにかく先に進むしかないのかもしれない。

あとのことは、先になってみないとわからないのだ。

 

彼女は私から見て、少し舞い上がっている様子。

逆に私の方は、だいぶ客観的だ。

 

クールで聡明なイメージだった、初対面の彼女はどこへ行ったのだろう。

それほど、女性にとっての結婚は大きなイベントなのだろう。

 

そして、彼女はその相手として、私のことを選んでくれている。

少しばかり、私の方がマリッジブルーに包まれているけれど、嬉しそうな彼女の姿を見るたびに、このままでは申し訳ないなと思う。

 

どんどん外堀は埋まっていく。

私が彼女を攻略していたはずなのに、気がつくと私の方が攻略されようとしているようだ。

 

やはり、私の彼女は聡明なのかもしれない。

私はいつも女性から搾取される側なのだ。

 

だけれども、彼女からは確かな思いやりを感じる。

そろそろ攻略される頃合いなのだろう。

 

ここらで城門を開いて、私は彼女の存在を通して、

「女性たち」との和睦を結ぶことになる。

 

長きにわたる、私と女性たちとの戦争は、

もう少しで終わりを告げるのだ。

 

「もう恋愛のことで悩まなくていい」

彼女と家族になることで、私は解放されるのだ。