先日、同窓会に参加をして思ったこと。
当時のヒロインと呼ばれる人たちが、今でもとても綺麗だったということ。
その姿を見ると、うちの同級生女子たちの容姿はとてもレベルが高かったのだと感じる。
私は婚活をしている時に、たくさんの女性と会ってきた。
婚活女子と学年のヒロインの容姿を比較するわけではないが、どうしても私から見て相手の容姿が気になることが多かった(自分のことは棚に上げて)。
今思うと、それは私が容姿レベルの高い同級生女子ばかりに思いを寄せたまま、理想と現実のギャップを埋めようとせずに大人になっていたからなのかもしれない。
よくわからないモテ期はある。
私の場合は30を少しすぎたあたりがその期間だった。そこでも容姿レベルの高い女子たちとのロマンスなのかロマンスではないのか微妙なやりとりが多く重なり、私は自分に期待をしてしまったのだ。
そういう経験を繰り返す中で、どうしても求める容姿のレベルが上がっていったように思う。
30も半ばを過ぎると、同世代の女子たちはほとんどが結婚をしていて、さらに20代の女子からは相手にされることが減っていく。
それでも少ない経験からか、女性に対して求める容姿レベルは下がらないまま婚活を続け、それが満たされないことがわかると、半ば結婚を諦めるようになった。
それくらいのタイミングで妻と出会うことができたのだ。
妻と出会うことができなかったら、私は今も1人寂しく世間を恨みながら悶々とした日々を送っていたのかもしれない。
もしそうだったら、ブログの内容もだいぶ今とは変わっていたはずだ。弱者男性のお気持ち表明を延々と書き続けて、満たされない思いを吐き出す目的で、ネガティブワードを垂れ流すブログになっていたことだろう。
子供の頃に綺麗な人は、大人になってもだいたい綺麗なのだ。
大人になって、太った昔のヒロインに幻滅するというような創作シチュエーションはよくあるが、少なくとも私の環境・年齢ではまだそういうことはなかった。
もちろんヒロインたちは既婚者で、子供がいる人も多かった。
それでも変わらぬどころか、洗練された美貌を保ち続ける姿には脱帽した。
ポジションは、大人になってもそう簡単には変わらないのかもしれない。
よほど大きなパラダイムシフトを経験した人は、むしろ同窓会という場には参加しないのだろう。
それなりに真っ当に、それなりに変わらずに、それなりに時を重ねてきた人。
そういう人の集まりが同窓会なのかもしれない。
みんな変わらないわけだ。
懐かしさの正体は、懐かしさを求める人たちの心そのものなのだ。
人は経験を信仰する生き物。
過去に縛られながら生きていく生き物なのだ。