「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

この一週間が勝負

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正確には8日間か。

12月15日まで私の忙しさは続く。

逆にここを乗り越えれば、あとの年末は今のところ消化試合みたいなものだ。

 

忙しいと思って始まった今年。

振り返れば思っていた以上に忙しかった。

これでも来年に積み残しとなる案件もいくつかある。

そして、今の時点で来年は今年よりも忙しくなることがほぼ確定している。

 

妻が職場復帰となれば、家庭の私の負担は必然的に増える。今はなんとかやっていけるけれど、夫婦揃って負担が増えれば家事育児が回らなくなる恐れがある。

そうなると必然的に、仕事の時間をなんとか削ったりと時間の捻出をしなければならなくなるのだ。

 

来年の私たちは、果たして生活を回していくことができるのだろうか。

今から戦々恐々としている。

思えば、子供が生まれる前から私は戦々恐々としていた。今年は一年中、戦々恐々とする年なのかもしれない。

 

そして来年もそれは続く。

未知の体験が続く。

子育てとはそういうものなのだろう。

Mrs.GREEN APPLE『ビターバカンス』

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疲れたと言っても良い。

疲れたら休んでしまえばいい。

 

そんなミセスらしい希望溢れるメッセージをファンタジックに伝えてくれる曲だ。

 

「良い子でいなければならない」

子供なのに子供ではいられない世の中だ。

 

いわゆるアダルトチルドレン的な気質を持っていて、良い子であることを使命として課せられたと思い込んでいる人たちは多い。

 

失敗したくない。

失敗すると人生が終わる。

そんな強迫観念と共に生きることを課せられた若者たち。

 

だけれども安心して欲しい。

人生はそう簡単に終わりなどしない。

這い上がったことがある、

それがまた人生の財産となる。

 

負けても良い。

諦めなければ良い。

そのためには充電期間も必要なのだ。

 

気持ちは切らさずに、

割り切って羽を伸ばせば良い。

 

 

Mrs.GREEN APPLE『ビターバカンス』

同級生の容姿レベルが高いと、それが相手を選ぶときの基準になる

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先日、同窓会に参加をして思ったこと。

当時のヒロインと呼ばれる人たちが、今でもとても綺麗だったということ。

その姿を見ると、うちの同級生女子たちの容姿はとてもレベルが高かったのだと感じる。

 

私は婚活をしている時に、たくさんの女性と会ってきた。

婚活女子と学年のヒロインの容姿を比較するわけではないが、どうしても私から見て相手の容姿が気になることが多かった(自分のことは棚に上げて)。

 

今思うと、それは私が容姿レベルの高い同級生女子ばかりに思いを寄せたまま、理想と現実のギャップを埋めようとせずに大人になっていたからなのかもしれない。

 

よくわからないモテ期はある。

私の場合は30を少しすぎたあたりがその期間だった。そこでも容姿レベルの高い女子たちとのロマンスなのかロマンスではないのか微妙なやりとりが多く重なり、私は自分に期待をしてしまったのだ。

 

そういう経験を繰り返す中で、どうしても求める容姿のレベルが上がっていったように思う。

30も半ばを過ぎると、同世代の女子たちはほとんどが結婚をしていて、さらに20代の女子からは相手にされることが減っていく。

それでも少ない経験からか、女性に対して求める容姿レベルは下がらないまま婚活を続け、それが満たされないことがわかると、半ば結婚を諦めるようになった。

 

それくらいのタイミングで妻と出会うことができたのだ。

妻と出会うことができなかったら、私は今も1人寂しく世間を恨みながら悶々とした日々を送っていたのかもしれない。

 

もしそうだったら、ブログの内容もだいぶ今とは変わっていたはずだ。弱者男性のお気持ち表明を延々と書き続けて、満たされない思いを吐き出す目的で、ネガティブワードを垂れ流すブログになっていたことだろう。

 

子供の頃に綺麗な人は、大人になってもだいたい綺麗なのだ。

大人になって、太った昔のヒロインに幻滅するというような創作シチュエーションはよくあるが、少なくとも私の環境・年齢ではまだそういうことはなかった。

 

もちろんヒロインたちは既婚者で、子供がいる人も多かった。

それでも変わらぬどころか、洗練された美貌を保ち続ける姿には脱帽した。

 

ポジションは、大人になってもそう簡単には変わらないのかもしれない。

よほど大きなパラダイムシフトを経験した人は、むしろ同窓会という場には参加しないのだろう。

それなりに真っ当に、それなりに変わらずに、それなりに時を重ねてきた人。

 

そういう人の集まりが同窓会なのかもしれない。

みんな変わらないわけだ。

懐かしさの正体は、懐かしさを求める人たちの心そのものなのだ。

 

人は経験を信仰する生き物。

過去に縛られながら生きていく生き物なのだ。

2024年 新語・流行語大賞『ふてほど』

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『ふてほど』

かつて、これほどまでに聞いたことのない言葉が大賞に輝いたことがあっただろうか。

そう思って詳細記事を開いてみると、なるほど元ネタは見覚えのあるものだった。

 

ドラマ『不適切にもほどがある』

それを略して『ふてほど』とのことだ。

確かにこのドラマは面白かった。このブログの中でも取り上げた記憶がある。

 

しかし、誰がこのドラマを『ふてほど』と呼んでいたのだろうか。

少なくとも私の周りはおろか、ネット上でもこの四文字を目にした記憶がない。

もはや、賞の価値を下げるどころの話ではない。世間の感覚とのズレがありすぎて、話題になるためにわざとやっているのかと思うほどだ。

 

今回は、流行語の方ではなく、新語に特化した選定だったのだろうか。

下馬評では『50-50』や『裏金問題』あたりが最有力だと誰もが思っていただろう。

そこを掻い潜って『ふてほど』とは恐れ入った。

誰も聞いたことのない言葉、まさに新語である。

 

おそらく審査員という人たちがいるのだろうけれど、その人たちは辞退した方がいいのではないだろうか。

これを大賞に選んだ審査員だということが公表されるとなると、今後の仕事にマイナスしかない。

 

それとも本気で審査した結果、これを選んだのだろうか。それほど世間との感覚のズレがあるのだろうか。それとも何か見えない力が働いているのだろうか。

それほどまでに不可解な大賞である。

 

どこか今年を象徴しているようだ。

先の兵庫県知事選では、メディアの凋落が話題になった。

真偽は定かではないが、テレビは何かに忖度をして偏向報道を行なっているとSNSで拡散されて、結果としては兵庫県民以外の大方の予想が外れる形での決着となったのだ。

今回の大賞である『ふてほど』も、何かに忖度をした選考結果ではないかと疑惑は深まる。

 

真実がどこにあるのかわからない。

それでも一人一人が真実を見極めていかなければならない。

イメージだけで人気を集めることのできる時代だ。

 

どう見せるのか。どう見えるのか。

そんなことばかりが先行して実利がない。

いや、誰がやったところで何も変わらないという諦めが、半ば自暴自棄になった聴衆の受け皿となっているのだろうか。

 

風に流されていたい。

波に乗っていたい。

誰かと違うように振る舞うよりも、

浮いて目立つことを避けたい。

 

これからの時代を作る若者たちの意識が、政治やメディアのあり方に反映されてきているのかもしれない。

これからの時代を作るのは若者たちなのだ。

どんな時代になったとしても、責任転嫁はできない。

その覚悟だけは持ち続けなければならない。

今以上に社会は個人を守ってなどくれない時代に進んでいくのだから。

子供の成長

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毎日変わっていく。

気がつくとできることが増えている。

家で好き勝手に過ごしているように見えて、乳児は日々成長を続けているのだ。

 

寝返りを始めたかと思ったら、今にもハイハイをしそうな状況。

何か言葉を発しているなと思っていたら、それが意思表示に繋がるようになってきた。

 

私は毎日忙しく動いているが、ほとんど家から出ないで生活をして、家を出る時もベビーカーや抱っこで主体性のない子供ほどの成長を実感できていない。

 

経験したことのないことをたくさん経験すると、成長が早いのだろうか。

子供からしたら全てが未知の体験だ。

だからこそ、そこから学ぶことは多いのだろう。

 

大人にとっても同じことが言えるはずだ。

経験したことのないことをたくさん経験して、そこから学ぶことを心がけたい。

 

歳を取れば取るほどに、高をくくって物事を見るようになる。大体のことに対する自分の心の動きが想像できるようになってしまうのだ。

それはある意味では成長と言えるのかもしれないが、ある意味では退化でもある。

 

新しいことに飛び込んでいく勇気を持ち続けることが、成長を実感するために重要なことなのかもしれない。

 

まだまだ終わらない。

そういう気概を持ち続けていたいものだ。

子供から学ぶことは多い。

本格的に冬になってきた

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暖房をつけることが増えてきた。

特に朝は布団から出ることが億劫だ。

靴下を枕元に置き、布団から出る前に履いておく。

そんなひと手間をかけないと布団から出ることができない季節になった。

 

今年の冬はだいぶ遅れてやってくる印象だ。

12月に入っても関東で紅葉が見頃のところが多いようだ。

あったかかったと思ったら、急に寒くなる。

これまでの常識は、もはや通用しない気候に変わってしまったのかもしれない。

 

今年1年間の変化。

私にとってそれはとてつもなく大きいものだった。

子供が産まれて子供中心の生活に変わった。

今はまだ妻が育休中だから、家庭のことはおおよそ任せることができているが、来年はまた共働きに戻る。

 

そうなった時に、私の生活はまた大きな変化を伴うのだろう。

どんどん変わっていく。

私も社会も一年ごとにどんどん変わっていくのだ。

 

その変化を実感できることに感謝をしたい。

もしも妻と出会うことができなかったら、私は今も1人で悶々とした生活を送っていたのかもしれない。

停滞感に苛まれて、独善的な思考に支配されていく。

そういうifの未来は想像に難くない。

 

今の私は幸せなのだ。

幸せの渦中にいる時は幸せなことには気がつかない。

多くの幸せを浴びすぎて、それが幸せであることを忘れてしまうのだ。

 

地に足をつけて幸せを噛み締めたい。

そのために、感謝を忘れずにいたい。

 

冬が始まる。

この冬を乗り越えると、その先に春がある。

その頃の私は今の私よりも一段成長できていると良い。

それを信じて今日も前に進もう。

 

12月になった

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いよいよ年末だ。

仕事の方は追い込みに入った。

12月の前半を乗り切れば少し落ち着く見込みだ。

 

今年は30代で一番忙しくなる年だと覚悟をして臨んだ。そして、忙しさは想像以上のものだった。

来年に繰り越しになった案件もあるが、予定していなかった案件が降ってわき、それが思いのほか大変だった。

 

「予定は未定」

昔と比べると仕事も家庭も予期せぬことが多くなった。

それに柔軟に対応することを求められる年齢と立場になったのだ。

 

おそらく40代になると、責任はより一層重くのしかかってくるはずだ。

30代のうちに、如何に苦労して実力と実績を積み重ねてきたのかが求められる。

そんな社会人としての本丸となるフィールドに片足を突っ込んでいると感じる。

 

ここからは、今よりも社会人としての力量を求められる機会が増えるはず。

来年は、そういう覚悟を持って臨むことが大切になるだろう。

 

「コンフォートゾーンを広げる」

 

今年1年間はそれを目標にして生きてきた。

過酷な環境にいても、それを自分が快適だと思うことができればストレスは少ない。

多くの経験を積み重ねる中で、コンフォートゾーンを広げることができれば、課題に対して成功体験を武器に立ち向かうことができる。

 

ここしばらくは、新しい経験ばかりをさせていただいている。

そのことに感謝をしながら今年を締めくくりたい。