『君の名は』を境にして、
現代アニメ界における代表的な監督となった新海誠氏、
先日話をしていた女性が、
「『天気の子』を見て泣きました」
そう言っていた。
私の感想は申し訳ないが、
「あれで泣けるのか」というもの、
だいぶ年下の女性、
「ジェネレーションギャップ」なのか、
「私と世間との感覚の乖離」なのか、
おそらくレビューなんかを見ていると後者なのだろう。
確かにグッと来るシーンはあるけれど、
終わり方に「またやってしまったな」と思う。
興味がある方は過去記事を参照して欲しい。
私は新海誠監督の作品は短編を含めて、
知りうる限り世に出ている全てを見ている。
『君の名は』は売れ線な終わり方をしたけれど、
その作風はいわゆる「セカイ系」だ。
一言でいえば「恋愛至上主義」
世界の行く末よりも「愛」が大事、
世界を亡ぼしてでも「一人の相手」を選択する。
そういうもの、
おそらく日本におけるもっとも代表的な作品は、
『最終兵器彼女』ではないだろうか。
「セカイ」を取るか。
「彼女」を取るか。
主人公はその二択を迫られる。
そして大抵は「彼女」を取るのだ。
私はこういうものを「破滅的な愛」と呼ぶ。
「君だけがいれば他には何もいらない」
「あなただけが私のすべてなの」
申し訳ないけれど、
そういうのって気持ちが悪い。
だから私は新海誠監督の作品を、
「映像も構成も演出も文句なし、
だけれどもストーリーが根本的に好きになれない」
大抵はそう評している。
「だったら見なければいいのに」
そういう声が聞こえてきそうだ。
だけれども新作が出るたびに、
私は新海誠監督の作品をワクワクしながら見続ける。
そして見た後に大抵ゲンナリする。
期待が大きかったこともあるだろう。
だけれどもそのゲンナリ、
ルーツを探ってみると、
「同族嫌悪」というものなのかもしれない。
ブログ読者の方はわかると思うが、
私は「純愛主義者」だ。
それにこだわるあまりこじらせ続けている。
「純愛主義」と「破滅的な愛」
大きな類似点がある。
それは「愛の大きさ」だ。
ある意味では依存的ともいえるほど大きな愛、
「無償の愛」と言い換えられるだろうか。
利害関係に囚われず、
互いを純粋に求めている。
そして裏切らない。
そういう「大きな愛」
「純愛主義」と「破滅的な愛」
共にそれを理想に掲げている。
だけれども決定的な違いがある。
「相手だけ」を愛するのか。
「相手の周りも含めて」愛するのか。
その違いだ。
私の掲げる「純愛主義」は、
例えば相手の粗悪な家庭環境だったり立場や責任、
そういうものを含めて「自らの責任として受け入れる」
そう考えている。
だけれども「破滅的な愛」は、
そういうものを切り捨てて、
「二人だけでどこか遠くに逃げる」
「セカイ」なんて関係ない「互いさえいればいい」
そういう描写が主軸だ。
「セカイ系」における「セカイ」というのは、
「愛の大きさ」を表現するための壮大なメタファーなのだ。
それは決定的な差だ。
「愛」ってものはさ。
「二人の周りにいる人たち有りき」なんじゃないかな。
私はそう思っている。
だから私は新海誠監督の作品を見て、
方向性に類似を感じながらも、
「理想」を否定されたような気になるのかもしれない。
詰まるところ「エンターテインメント」だ。
「アニメにそこまで本気になられても」
いや全くその通り、
文字通り「痛い」ほど自覚している。
私は私の「理想」を大きくしすぎているのだ。
これまでの報われなかった努力の屍を積み上げて、
その上に立つことで「より高みに近づいているはずだ」って、
自分を慰めているのだろう。
努力すればするほどに遠のく「理想」
何とも皮肉なものだ。
「恋はいつでもハリケーン」
そうやって、
素敵な人を見つけたら、
考えなしに一緒になれれば幸せなのかな。
私の中でいろいろなものが定義付けられて、
そのたびに窮屈になっている気がする。
多くの場合、
その「定義付け」は大きな武器になる。
だけれども「恋愛」は別なのだ。
どうやら私にとっての「恋愛」は、
もしかしたら「生死」と並ぶくらいに、
人生における大きなの課題なのだろう。
どう考えても「天敵」だ。
「天敵」
そう思っているうちはうまくいかないのかな。
「破滅的な愛」
そこまで振り切れもしない。
だけれども「誠実」という看板を掲げて、
「純愛」を気取ってこじらせている。
まるで「道化」だな。
そろそろ大人にならないといけないのだ。