オンラインで人とつながる機会が増えたものだから、
画面越しでのやり取りが増えた。
そうすると、
上だけちゃんとした服を着て、
下は部屋着だったりする。
見えないところが出てくる。
お互いにやり取りする情報は、
限られたものになるのだ。
仕草や目線、周囲との関係性や立場などは制限され、
容姿や声、話し方といった、
わかりやすい表現の持つ価値は飛躍的に上がる。
先日、オンラインで会議をしていた時のこと、
「ものすごく感じのいい笑顔」をしていた男性がいた。
何度も対面で話したことがある、
私より少し年上の方だった。
画面上で見ていて、
「すごく感じがいいな」と感じ、
私は彼の笑顔に釘付けになった。
女性の笑顔に釘付けにはなっても、
男性の笑顔に釘付けとは、
私もついにソッチの方に目覚めてしまったのだろうか。
いつ目覚めてもおかしくはない。
きっとそういうものなのだ。
いやいや、そうではないな。
「好意」ではなく「好感」
それを履き違えるとおかしなことになる。
それは男女関係でも同じことだ。
さて、そのまま視線を少しずらしてみて、
画面上に映る私の姿に目を向けると、
彼の笑顔とは対照的に、
なんだかブスっとしている様子、
その差は一目瞭然だ。
淡々と事実を述べて、
意見を求められれば受け応えて、
必要がなければ常にミュートにしている。
確かに役割はこなしているんだけどさ。
画面上の私はどう見ても「面白くなさそう」だ。
比べて笑顔の素敵な彼は、
「どこか主体的でいきいきとしている」
そんな印象を与えてくれる。
会議が終わった後に、
「これはまずいな」と思った。
「オンライン上での私の印象、良くないじゃん」って、
そう思った。
見えない部分が多いものだから、
おそらくオンラインだと油断があるのだろう。
「役割だけこなしていればいい」って、
それがどこか受け身な姿勢につながる。
加えて私は「人生が充実していない」と、
そうブログに書き続けているけれども、
どこか「満たされない」という感覚を持ち続けているのだ。
オンラインだと思って油断していると、
そういうのって「如実に表れるな」ってそう思った。
人の表情と言うものは、
私が思っている以上に雄弁なのだ。
人生に対する受け身な姿勢、
私のそういうところを浮き彫りにされた気がした。
それぞれが「苦しみ」を抱えて生きている。
楽に生きている人なんていない。
だけれども、
そこに対する「姿勢」が表情に現れるのかな。
「笑顔の素敵な彼」
いつも前向きで、
人の主張を遮らない。
あまり器用なタイプには見えないけれど、
誠実に懐に入り込んでくる印象だ。
彼の醸し出す「素敵な笑顔」から、
私は「人生への姿勢」を見直さなければならないと、
そう感じた。