「チャンス」が転がってきた時に、
その「チャンス」を目の前にして先に進むことができなかったのに、
「悔しい思い」よりも「安堵の気持ち」が勝る。
私にはそういう経験が何度かある。
もちろん臆病な気持ちが顔を出して、
先に進むことを躊躇した結果なのだろうけれど、
「希望」していたことなのに、それが手に入らずに安堵する。
「私の人生がうまくいくはずがない」って、
私は根っからのペシミストなのだろうか。
よく覚えているのは転職活動をしていた時のこと、
高倍率を突破して、希望していた企業から最終面接の通知が来た。
しかし、その日はどうしても仕事を休むことができず、
企業に何とか日程を変更してもらえないかと頼むも、
「他の候補者は全てその日を了承している」との理由から、
それが受け入れられることはなかった。
結果として私は、離れようとしている現職に義理立てする形で、
そのチャンスをふいにすることになる。
だけれども、その時にどこか「安堵」を感じていた。
最終面接に臨み「不採用」のレッテルを貼られることを恐れていたのか。
それとも環境が変わること自体を恐れていたのか。
それはわからないけれど、
望む将来に向けてのチャンスを失って「安堵」していたことは確かだ。
このような経験は一度や二度ではない。
こと、恋愛についてはいつも同じような気持ちになる。
うまくいきそうな女性との出会いを重ねていくうちに、
どこか不安な気持ちが生まれてくる。
一応は望む形にもっていこうとアプローチを続けるも、
うまくいかなくなると途端に「安堵」が顔を出す。
「私は女性との将来を希望していなかったのか」
何度も自問自答するけれど、
どのような切り口で考えてみても、
私はそのことを希望しているし、
それに向けて努力を重ねていた。
婚活で唯一、心惹かれた女性とうまくいかなかった時も、
同じように「安堵」が顔を出した。
そのたびに私は「不思議な気持ち」になるのだ。
例え望む将来であっても、
人は環境の変化にストレスを感じる。
私は「ライフステージを進めたい」と願っているくせに、
変化を恐れているのだろうか。
「何が何でも」という気持ちがない。
「良いところまでいくのにうまくいかない」
もちろん掴み取ったものもあるけれど、
これまでの私の人生はそういうことが多かった。
もしかしたら「うまくいかなくても仕方がない」って予防線を張っているうちに、
その予防線のほうに気持ちが引っ張られてしまうのかな。
ダメージを軽減するために、
うまくいかなかった時のことばかり先読みしているうちに、
そちらのルートに乗っかってしまうのかな。
そうやって「うまくいかない自分」に浸ることで、
悲劇の主人公という「居場所」を求めているのだ。
環境は何も変わらなくても「居場所」を手にすることができる。
「頑張ったアピール」までできるおまけつきだ。
私はそうやって先に進むつもりもないくせに、
「頑張ったけどダメだった自分」を演出して、
「臆病な自分」に気が付かないふりをしているのだ。
いつだって選ばれない。
それは私が私に期待していないのだから当たり前のこと、
何となく印象は良さそうだからって、
最後の数人に選ばれることはあっても、
最後の一人に選ばれることはないのだ。
私が選ぶ方だったとしても私のことを選ばないだろう。
私が良いところまで行ってうまくいかないのは、
偶然ではなく必然なのだ。
何とも厄介な性質を持ってしまった。
手放すためにはハナから諦めるしかないのだろうか。
それとも、うまくいくまでやり続けるしかないのだろうか。
私は私の人生に期待しているのだろうか。
それとも、これ以上先に進みたくないと思っているのだろうか。
一生、独り身でいた方がリスクは少ない。
苦手分野に挑戦する必要もない。
だけれども、欠落感を感じながら生き続けることになる。
自分が何を望んでいるのかわからないな。