「努力が報われない」
「十分な成果をあげたのに評価されない」
人の織りなす組織の中で生きる我々だ。
そういうことは往々にしてある。
そういう時は「なんで?」と理由をさがしては、
客観視して納得することもあれば、客観視しても納得いかない場合もある。
いずれにしても、バイアスをかけて自分をある程度正当化した見立てになる。
自分は「誰よりも自分の努力を知っている」と同時に、「人から見える自分のこと」を知らない。
不信感を前に進み原動力に変えるか、不信感に苛まれてやる気を無くしてしまうか。
あまりにも納得いかなければ、そこから抜け出すという選択肢もある。
だけれども、結局、楽な方に流されてしまうと何も変わらないのだ。
人生はそこで終わるわけではない。
「報われなかった経験」こそが飛躍のチャンスだと捉えて、自らの思考や行動をブラッシュアップしていくしかないのだ。
私は女性関係については「奇跡的」と言っていいほど報われない。
奇跡的なすれ違いを幾度も経験してここまできた。
何度もチャンスを逃しては、逃したチャンスに気持ちを引きずられて、ハードルは高くなる一方だ。
経験から学ぶことで、成長はあるのだろうけれども、その「成長」よりも高いハードルを課し続けているうちに、「年齢」という市場価値を色濃く反映する数字は上がっていき、客観的な価値は失われていく。
「恋愛」というのは男女問わずそういう残酷さを持ち合わせている。
話を戻そう。
「報われなかった経験」
それを「失敗体験」で終わらせてしまうか。
「成功体験」へと繋げていけるか。
それは、その人が「ゴール」と「現在地」を正しく認識できているかにか懸かっている。
当然のことながら、「ゴール」がわかっていなければ、その人にとっての「成功」が何を示すのかわからない。
そして「現在地」がわからなければ、「ゴール」に向けての現状の課題がわからない。
だからこそ「報われなかった経験」
それは、自らの課題を浮き彫りにしてくれている、言わばチャンスでもある。
自分ではうまくやれたつもりでも、周りはそうは思わなかったのかもしれない。
あるいは、もっとうまくやった人がいたのかもしれない。
不信感を募らせることは簡単だけれども、誰かのせいにしたところで、そこから先の成長はない。
だから、「報われなかった時」こそ、
「ゴール」と「現在地」を意識したいと思う。
過ぎたことは変えられないし、決意した瞬間から次への歩みは始まっている。
それならばスタートは早い方がいい。
後悔する時間が必要な時はあるけれど、
どんなに後悔したところで、次に納得のいく結果を勝ち取るより他に雪辱の道はないのだ。
人生って、そういうもの、