仕事とプライベート、
「公私」という括りで真っ先に思い浮かぶものだ。
それを混同させたときに生じる弊害について書こうと思う。
昨今は「テレワーク」普及により、この線引きが難しくなっている。
「通勤」という儀式を経ずに仕事に入りプライベートに戻る。
その繰り返しの中で日常は過ぎていく。
そうなった場合にどう折り合いをつけていけばいいのだろうか。
まず、統制の取れた組織は「公私混同」を極力排除することを目指している。
理由は簡単だ。
「リスクヘッジ」と「生産性を維持するため」
例えば社内恋愛、
これは大きな「リスク」を孕んでいる。
関係が進んでも終わっても、
互いに距離が近づくあまり感情的になりやすく業務に支障が出る恐れが出る。
特に「終わった場合」は目も当てられない。
関係性がおかしいことは空気でわかる。
周りにいらぬ心配をかけて生産性に影響が出ることになることは少なくない。
私もこれで苦労した。
もうこりごりだと思っている。
他にも勤務中の私用でのネットサーフィンやメール使用、
そういったものは「セキュリティリスク」や「生産性の低下」につながるとして、
規則で禁じている会社は多い。
これも「公私混同」を避けるための施策と言えるだろう。
経営層の考え方としては「社員を手持無沙汰にさせないこと」
そういう考えは割と主流なのだと聞く。
余裕を与えるから余計なことをしようとする。
だから利益の出ない案件であっても「社員にやることを与えるため」に受注する。
会社としても「売上」の見栄えは良くなるので損をすることはない。
そうやって社員を飼いならしていくのだ。
余裕のあるホワイトな会社よりも、
ブラック気味でも常に忙しい会社のほうが離職率は低いと聞く。
ブラックすぎるとさすがにどんどんやめていくだろうけれど、
「ブラック気味」いわゆる「やりがい搾取」をうまいことしている会社のほうが、社員の帰属意識は高まるのだろう。
「公私混同」しているときの「私」
それは「余裕」を指すのかもしれない。
「余裕」があるから私的な作業を始めたり、私的な思考に時間を割く。
そこから生まれるアイデアがビジネスチャンスにつながることもあるだろうけれど、
会社の規模が大きくなるほど、それは社員に求められなくなる。
経営層が考えたビジョンを元に、手足として効率よく忠実に動く。
そういう「労働力」として優秀な人材を多く抱えようとしているのだ。
だから社員には「余裕」を与えない。
それは割と経営判断としては定石なのではないか。
そうやって飼いならされていく。
しかしそれは結果的に社員にとっても悪くはないのかもしれない。
「余計なことを考えずにやるべきことを与えられる」
自分で考える必要がないのだ。
特に今の時代は自由を持て余している。
人生におけるモデルケースは崩壊し、
働き方から恋愛の形、異性を恋愛対象にするか否かまで、
個人はあらゆる場面で選択を迫られるのだ。
だから「働いている時間」にまで自由を与えられたくないのかもしれない。
皮肉なことに「自由」を与えられれば与えられるほど「不自由」になっていく。
「パーソナリティの肥大化した時代」
「神なき時代」に人はどう生きればいいのか。
ドストエフスキーが作品を通して人類に与えたテーゼ、
100年以上を経てもなお、人類はその問いに答えを見いだせていないのかもしれない。
権利ばかりを主張してはいても、
一部の天才を除く多くの凡人には、ある程度のレールが必要なのだ。