これが「既婚者」としての心の余裕だろうか。
道端でいちゃついているカップルの姿を見て、
前ならば、ささくれ立っていたはずの心が穏やかだということに気がつく。
客観的に見て、これは大きな変化だと感じる。
私はもう、前の私ではないのだろう。
そして、余計なことを考える必要がなくなった。
とりあえず、今は先のことだけを考えていればいい。
先のことが見えなくて、悶々とする必要などないのだ。
それだけでもQOLは大きく向上する。
「頭打ち」のような感覚。
ある程度歳をとって未婚だと、よほど夢中になれることがない限り、誰しもそれを感じるのだろう。
私の場合は、コロナ禍による制限や、仕事が落ち着いていることも重なって、一層それを感じていた。
そこから一歩踏み出して転職したところから、運命は大きく動き出した。
直接的な関係はないのだけれども、妻との出会いは、私が環境を変えたことで舞い込んだ奇跡だと感じている。
この感覚は、いつまで続くのだろうか。
新婚の感覚が落ち着いたら、私はまたカップルを見たときに、心をささくれ立たせることになるのだろうか。
人は「満たされていない」と感じ続けると、徐々にどこかおかしくなっていく。
私は、かなりおかしくなっていたのだろう。
去年のクリスマスイブに、仕事終わりカップルの群れが邪魔すぎてぶつかりながら帰った、なんて、
そんなことを書いていた。
それと比べると、一年も立たないうちに、大きく心境が変わったものだ。
今年のクリスマスイブに、私はどのように過ごすのだろうか。
相変わらず忙しくしているのだろう。
今のところ落ち着く気配はない。
私の人生は、これから先もしばらくは、忙しなく先に進んでしまうようだ。
「モラトリアムの終焉」
本当にいよいよ、なのだと感じる。
随分と長かった。
私は長いこと子供でいられた。
それは有難いことなのだろう。
ここから先は、もう少し大人にならなければならないのかもしれない。
ライフステージが先に進むということは、成長を求められることでもあるのだ。
私は人生から、また新たな課題を突きつけられた。
その課題をクリアしないと、また新たなステージに到達することはできない。
結局は、その繰り返しなのかな。
そして、嫌でも課題は目の前に現れる。
誰かが代わりに、自分の人生を生きてくれることなどない。
自分の人生には、自分で責任を取るしかないのだ。
幸せな時、苦しい時、
それは千変万化していく。
人目を憚らず、いちゃついているカップルも、
いつまでもその関係を維持することはできないのだ。
人は、いつまでも変わらずにいることはできないのだ。