「信念なく情熱を持って語る」
情報はいくらでも手に入る時代だ。
だから「それらしく見せるテクニック」も世の中に蔓延っている。
「人のために働きたい」だとか、
「社会の役に立ちたい」だとか、
聞こえの良いスピーチを武器に聴衆を熱狂させるための方法はいくらでも学ぶことができるのだ。
そして「信念なく情熱を持っているかのように見せかけて語る人」はヤバい。
時代に毒され、役割を演じることが役割となり、自分が本当は何をしたいのか分からなくなっている人。
もしくは聴衆を味方につけて人気を集め、自らの野心を叶えようとしている人。
多くはそのどちらかだろう。
ドラマ『笑うマトリョーシカ』
嵐の櫻井くん演じる政治家は、人を惹きつける魅力を持っているが、中身は空っぽの人という設定だ。
本人の意思とは無関係に、周りに求められる役割を演じることで、自らの存在意義を示す。
まだ話の途中だから、ここからどう発展していくかは分からないが、リアルでもこういう風に、「役割を演じること」が生きる目的となっている人は多いと感じる。
もちろん誰しもペルソナを使い分けて生きているから、役割を演じることが悪いわけではない。
むしろ、それがなければ社会は破綻してしまうだろう。
しかし、それが生きる目的になってしまうと、本当の自分が何を求めているのかが分からなくなる。
今の時代は、信念を得るに値する原体験が減ってきているのかもしれない。
なんとなくうまく立ち回り、なんとなくうまいこと組織に適応した人が褒められる時代だ。
多様性を認めるという仮面を被りつつも、画一な価値観をもとに評価される時代と言って良いのかもしれない。
そう考えると、社会自体が仮面を被っている。
真実などどこにあるのかも分からない。
そんな時代をうまいこと立ち回るには、役割を演じるしかないのかもしれないな。
そうなるとAIと変わらない。
最近思うのだけれども、人間はどんどん機械に近づくことを求めている気がする。
AIとの差別化を図らないと、人間の存在意義が失われてしまう恐れのある中で、この方向性はマズイのではないだろうか。
それとも、心というものの本質もまた、ビッグデータにより再現可能ということだろうか。
「信念」の材料となりそうな、「魂」とでもいうべきものは、果たして存在しているのだろうか。
人類は、それを問われるフェーズに突入しそうだ。