人を道具として見ていると、
目の前にいる相手に対しても、その人が生身の人間であることを忘れてしまう。
そうしているうちに、世界はどんどん0と1に見えてきて、自分の存在以外のものは、バーチャルリアリティと大差なくなっていく。
それでも、自分の心だけは否定することができない。
それならば、目の前の相手も、自分と同じように心を持った人間であることもまた、否定することはできないのだ。
人は、想像力を豊かにし過ぎてしまい、その結果として、足元を見なくなったのかもしれない。
無限に広がるネットワークに魅了されて、遠くの世界にばかり思いを馳せているうちに、うまくいかない目の前の現実と向き合う力を失いつつあるのかもしれない。
「娯楽」と「快楽」は紙一重だ。
生活に直接関係はないが、需要のあるサービスには、ある種の「快楽」がつきものだ。
そのサービスを利用することにより、快楽を呼び起こす脳内物質がドバドバと分泌される。
だから、そのサービスに対価が支払われ続けることとなり、それがサービスとして成立するようになるのだ。
いわば、現実がいかに辛くつまらないものであったとしても、お金を支払うことで、いっときの間だけ、それを逃避することができる。
そして、その世界から抜け出せなくなり、いわゆる沼にハマってしまうと、生活まで破綻しかねない。
搾取する側は、当然多くの事例を目の当たりにしているものだから、目の前の相手を破綻させることになることを知っている。
だからこそ、目の前の相手をお金を生み出すための道具としてみることで、相手を知ろうともしなければ、相手に人格が存在することを認めようとしない。
それは、搾取する側からすれば、ある種の自衛なのかもしれない。
世知辛いね。
親身になっているふりをして、味方でいるフリをしてさ。
目の前にいる相手のことを「金づる」としか思っていないのだ。
結果として「金づる」としての使い道がなくなったら切り捨てる。
搾取される側も、薄々騙されていることに気がついているのに、それまでにかけた時間とお金から、引くに引くことができず、最後まで搾取する相手を信じようとする。
人はいつだって、無い物ねだり。
他のところが満たされていたとしても、足りないところにばかり目を向けて「満たされない、満たされない」って、答えのないものを探して彷徨うゾンビのようだ。
だから、そこにつけいられて搾取される。
相手が求めているものだけを探って、それを与えるような仕草をして、対価を巻き上げるのだ。
相手の本質を知ろうとすること。
そして、相手の努力に敬意を払おうとすること。
相手を認めようと務めることが、今の時代には求められているんじゃないのかな。
人間関係を広げる目的を、物質的な利益を目的としたものにしてしまったら、もはや、世界は音もなく崩れ去っていく。
人間が人間であるために、目の前の相手のことを知ろうとすること。
まずは、そこから一歩が始まるのではないだろうか。
ふと、そんなことを考えた。