「自分は不幸だ」
そうやって環境のせいにして前に進むことのできない人をたくさん見てきた。
それでも淡々と目の前の課題に取り組み続けて、少しずつ先に進んでいる人もたくさん見てきた。
後者の人たちが、例外なく口にする言葉がある。
「あの時の苦労があったから、今の自分がある」
要は、環境に流されるか否かの違いでしかないのだ。
もちろんタイミングもあるだろう。不幸の度合いにも差があるだろう。
個人の資質による得手不得手もあるだろう。
しかし、いくら嘆き続けたところで、誰かが代わりに自分の課題を肩代わりしてくれることなどないのだ。
とにかく動き続ける中で、少しずつでも状況を変えていく。
親のせいにしても仕方がない。理不尽な上司のせいにしても仕方がない。
過去の自分のせいにしても仕方がないのだ。
人生は、どこまでいっても自己責任。
誰かの助けを得ることがあったとしても、最後に「変わることができるか否か」は、自分の選択に委ねられている。
ネットで見たある人の話。
今いる環境に不満がある中で、独立して経営者になるチャンスが舞い込んできた。
しかし、その人は一歩を踏み出すことができずに、不満のある環境に留まり続けた。
その結果、彼の代わりにチャンスに飛びついた人は成功を収めて、チャンスを逃した彼は、不満を我慢しながら悶々と時間を浪費していく。
そして、相変わらず不満を垂れ流して生きているそうだ。
これは結果論かもしれないが、チャンスだと思うことが目の前にあるならば、それに挑戦しないと後悔するのではないだろうか。
チャンスを代わりに掴み取った人の失敗を願うような歪な感情に支配されるくらいなら、いっそなこと失敗してでも飛び込んでみればいい。
不満を垂れ流して、最後は「自分が満たされないのは日本政府のせいだ」だなんて、責任転嫁も甚だしい。
「自らの生きる理由」
そういうものを見つければよい。
満たされない生活の中に、必死になってそういうものを見つけることができたのならば、不満を口にする時間を減らすことができる。
「ため息は酸素の無駄遣い」
あいみょんがそのように歌っていたけれど、
結局生きるのであれば、自分の心を満たしてあげられるような何かと共にいきたい。
不満しか口にしない人。
その人は「不幸な境遇」に身を置いているから、そうなるのではない。
「自らを不幸だと思い込んでいる」から、そうなるのだ。
誰から何を言われようと、自分が幸せだと思って生きることができたならば、こんなに素晴らしいことはない。