世の中には様々な哲学がある。
何に重きを置くかによって物事の見え方は変わってくる。
心に主眼を置けば、自らの心の向きに囚われた生き方となるし、体に主眼を置けば、欲求に縛られた生き方になる。
どちらかに傾きすぎてもいけないし、ちょうどいいバランスを保ち続けたところで、常にそこに正解があるとは限らない。
大事なことは、物事を俯瞰して本質を見抜くことなのではないだろうか。
「アンコンシャスバイアス」に目を向ける、という考え方が流行っているが、それを平く訳すと「自らの無意識が発する偏りに気がつく」それを推奨するということである。
ACの広告でも流れていたが、私たちは、目の前の事象に対して、性別や年齢で区分けした時に多数派が属する方向だろうと決めつけて生きている。
しかし、ダイバーシティアンドインクルージョンを目指す現代の社会組織においては、それを悪だと捉える。
難しい言葉ばかりが世の中に溢れている。
形而上学的なことは、所詮言葉遊びに過ぎないのかもしれない。
そうすると、自分の心にも正解はないし、自分の体も正解なのかどうかわからない。
学問の中に拠り所となるものなどない。
自分で自分の生きる道は決めなければならないのだ。
偏りのある考え方を私は好まない。
思想であれ、哲学であれ、一つの方向にだけベクトルを向け過ぎてしまうと、他との調和が取れなくなる。
「多様性」を認める社会は、自分また「多様性」
を認めることを求められる社会なのだ。
うまいこと調和をとりながら、思っていることを口にせず、相手の求める発言を行う。
今はそういう社会なのだ。
なんとも難易度の高い社会。
私たちは、そういう社会を生きているのだ。