自分の「強み」をアピールすることは大事なことだ。
特にビジネスでは、それを求められることは多い。
しかし、ただ「強み」をアピールするだけだと、ただの自慢話と捉えられてしまうことがある。
世の中には、人の経歴に対して素直に賞賛できない人も多い。
それどころか嫉妬の炎をめらめらと燃やす人もいる。
自慢話をした途端に話を聞いてくれなくなることも少なくない。
だから、強みを話すと同時に、その強みを手に入れるに至った経緯と、それが幸運であること、そして何よりも、その強みを手に入れたことに対する感謝を述べることが大事である。
「謙虚な人」ほど信用できる。
そういう感覚は既に醸成されている。
そして「信用できる」ということが、これほど重視される時代も過去にないのではないか。
SNSという便利なツールで、化粧をするよりも効果的に自らの身を綺麗に飾ることのできる時代だ。
目の前の人が信用できるのか否か、真実を簡単に判断することはできないから、人は感覚的に「謙虚さ」を尺度に信用に足る人物なのかを判断する。
そういう場面は多い。
結局、人は「経験を信仰する生き物」だ。
感覚で物事を書き判断して生きている。
「多様性」を認めようとする方向に進んではいても、まだまだ心の奥では「自分とは違うもの」を認めることのできない気持ちがある。
だから、スピーカーは聞き手から見て角が立たないように、発する言葉に対しても自らケアをしなければならないのだ。
先のことはわからない。
たまたま今が恵まれているだけかもしれない。
たとえ、自分が恵まれていたとしても、それがただの幸運であるとアピールする。
それが今のお作法なのだ。
調和の取れた世界。優しい世界。
その世界では優しくない人は排除される。
秩序が何よりも大事なのだ。
恵まれた立場にいる人ほど、
些細な失敗で追い落とされる。
どこで誰が狙っているのかはわからない。
どこで誰に恨みを買うのかもわからない。
だから表向きはみんな「いい人」を演じる。
演じているうちに、本当にいい人になれるならばいいけれど、人はなかなか簡単に変わることはできない。
私にはわからない。
世界に満ち溢れた「感謝」が本物なのか。
それとも、表向きだけのものなのか。
私自身でさえ、私の発する「感謝」の正体を見極めることはできていない。
「周りに感謝していたほうが得」だから感謝しているのか。
それとも、心から「感謝したい」と思うから感謝しているのか。
人類は過渡期を迎えているのかもしれない。
『ハーモニー』で描かれたディストピアのような調和の取れた世界に向けての扉はすでに開かれているのかもしれない。
その世界では自我など必要ないのだ。
みんながみんなに優しい。
誰も傷つくことなどない。
そんな優しい世界を私たち人類は望んでいるのだろうか。