Xでバズったらしく最近よく目にする話。
発信元は子供達の声なのか、保護者から見た声なのかわからない。
中学生になっても水泳の授業を男女一緒の時間にやることに対して苦言を呈している投稿に対して、賛否の声が集まっているようだ。
要は、男子からの性的ないやらしい目を、女子が嫌だと思っているのではないかという話。
よくあるフェミニスト界隈の人たちの得意な話題だ。
思えば、私の時はどうだったか。
中学までは男女同じ時間に水泳をしていた記憶はある。
高校からは流石に別だっただろうか。
他の体育の授業も時間は男女一緒だったが、やる内容は別だったように記憶している。
現在は多くの学校で、水泳もそれと同じカテゴリに入れられているということだろう。
男子は海パン、女子はスクール水着、
私の時はそうだった。
今は水着のタイプが変わり、露出の少ないタイプを採用する学校が増えているらしい。
中学の時の思い出。
更衣室はもちろん男女別だったが、お互いの話し声は聞こえていた。
男の更衣室から「誰の胸が大きいのか」と女子の更衣室に問いかける。
するとノリの良い女子からは「意外と〇〇さんが大きいよ」と返事がある。
あまり目立たなかった〇〇さんだったが、その「胸が大きい」という情報だけで、しばらく私の仲間内では隠れモテしていたという、今思うと馬鹿らしいエピソードを思い出す。
かくいう私も意識していた。
そう。私は中学の時から「おっぱい星人」だったのだ。
さて、水泳の授業を男女で分けるという話。
思い出補正もあるのかもしれないが、私の立場は「反対」である。
しかし、水着を露出の少ないものに変えることは「賛成」だ。
理由としては、あまりにも男女を隔離することを進めると、かえって子どもたちの性への好奇心を煽る結果につながるのではないだろうか。
それならば、他の授業と同じように同じ時間に授業を受けたほうが自然だ。
大人たちの態度を子供はよく見ている。
大人たちが禁止しようとすればするほど、性への興味は助長される。
正しい形で発達しないと、歪んだ発達に進む可能性は大きくなる。
「性教育」の話にもつながるかもしれないが、性についての話をタブーとする方向に大人たちが持っていくこと自体が、教育上、悪影響を及ぼすのではないかと思う。
大人がドンと構えて当たり前のように、男女一緒に水泳をさせていれば良い。
露出さえ抑えていれば、他の授業との差はないはずだ。
これを止める方向に進めて行ったらキリがなくなる。
体育着の下で揺れる胸がけしからんと言って、体育まで男女の時間をわけるのか。
夏場にブラウスから透けて見えるプラジャーのホックがけしからんからと、座学も男女別の時間に分けるのか。
極端な話、共学を廃止するのか、というところまでやらなければ気が済まなくなる。
異性との接し方は難しい。
それは同級生だけの話ではない。
生徒と教師、親と子供だったとしても、互いに理解できない範囲はどうしても生まれる。
だけれども、接点を減らすという安易な方法でその発達を阻害してもいいのだろうか。
性への興味は、生物として至極真っ当なものだ。
そこと向き合わないまま先に進んでしまうと、少し前の私のような高齢の童貞男を量産することになりかねない。
少子化はますます進むだろう。
自分の子供が娘だと分かった時に、一番初めに思ったことは「女の子は難しいな」ということだった。
姪を見ていても感じたことだが、女の子は自我が芽生えた時から女性なのだ。
可愛くありたいと願っているし、可愛いことを武器にする。
かたや、男の子は何も考えていない。
本能の赴くままに暴れ回ってはケタケタと笑い、楽しそうにはしゃいでいる。
発達の速度が違うから、理解できない幅があることは仕方のないこと。
だけれども、それは男女差だけではない。
大人になれば、気の合わない人とも、考え方やバックボーンの違う人とも、強調しながら生きていくことを求められるようになる。
そこを育てることもまた教育なのではないか。
安易に甘やかした先には、より大きな苦労が待っている。
大人は子供を責任を持って育てなければならない。
たとえ嫌われたとしても、過保護になってはいけないのだ。