「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「似た者同士が夫婦になる」のか、「夫婦になるから似た者同士になる」のか

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私の周りにいる夫婦は見ていて「似た者同士だな」と感じることが多い。


一見すると性格は「正反対」なように見えても、気質が似ていたり、雰囲気が似ていたり、

そういう姿に触れて「お似合いだな」と感じる。


職場の「クソ女」にしたって、職場結婚をして共に働く旦那は同じように私に対して気持ちの悪い接し方をしてくる。

「気持ち悪い同士がいっしょになったのだな」って割り切るようにしているけれど、

そういう姿に触れるたびにイライラは増していく。


いやいや、こんなことが書きたいのではない。

「似たもの夫婦」の話だ。


「鶏が先か。卵が先か」


結論はそういう話になるのだろうけれど、

「似たもの夫婦」になる素養があるからこそ「結婚」に至るのかもしれない。


生活を共にすれば「行動規範」が似てくるのは当たり前、

だけれども、それに耐えられないようであれば夫婦生活は破綻する。

裏を返せば、「似た者同士」ではないと一緒に生活することはできないのだ。


そういうことなのかな。


昨年、デートを重ねていた女性から言われたこと、

「私は誰かと生活を共にすることなんてできないと思っていた」

だけれども、彼女は同性の友人としばらくルームシェアをしていたらしい。


何かにつけてそのことを嬉々として語る彼女、

そんなに幸せな期間だったのならば、もう一度いっしょに住めばいいと思うほどだった。

解消した理由は聞かなかったけれど、もしかしたら訳アリだったのかもしれない。


「家事の分担」や「生活スタイル」

私に対して、それを探る彼女は「友人」と「私」を比較している節があった。

「一緒に生活できる人なのか」

それを見定めていたのだろう。


別の話になるけれど、少し前に合コンをした二人の女性、

職場の同僚みたいだけれども、歩きながら手をつなぐくらい仲の良い二人だった。

 

いい歳した女性2人が歩きながら手を繋ぐ姿に若干引いた私、

二人で旅行に行ったり、お互いのことは何でも知っています的な仲のようだ。

その姿はとても満たされているようで、もう二人で結婚すればいいのにと思うくらいだった。

 

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彼女たちはおそらく本能的にお互いの相性がいいことはわかっているのだろう。

だから一緒にいて満たされているように見える。

 

そう考えると「似たもの」となるには「夫婦」という括りも「性別」も関係ないのかもしれない。


人は「一緒にいたいと思う人」と時を過ごすようになる。

その延長線上に「夫婦」という括りがあるのだ。


体裁を気にして一緒になったところで、その関係に「忍耐」が必要であれば、

人生は色あせたものになってしまうのかもしれない。


もちろん、一口に割り切れるものではない。

生まれた家庭の問題だったり、子供の問題だったり、様々な理由があって結婚することもあるだろう。

 

望まない結婚だってあるし、妥協した結婚だってあるだろう。

生まれた環境によっては、生まれながらにして「忍耐」を迫られることもある。

そもそも「忍耐」を必要としない結婚なんて存在しないのかもしれない。


だけれども、時代に蔓延る「自由」というもの、

それが「気持ちに正直に」という方向へと進むことを肯定する。


「人生のカタチ」は多様化している。

それぞれの求める「夫婦」というものも多様化しているのだろう。

そして「別れること」も自由だ。


同性婚」を法的に認める国もある。

「マイノリティ」に対する認知は広がっている。

「自分らしさ」を肯定する土壌は出来上がりつつあるのだ。


人は「生物」であることを手放しながら「自由」を手にしていく。

その結果として人口が減っていき、生物として淘汰されたとしても、それは「本望」なのかな。


「種」としてよりも「個」としての価値観が尊重される時代、

だから人は「夫婦」に「居心地の良さ」を求める。


そうやって「似たもの夫婦」になる素養を持つもの同士がいっしょになり、

「似たもの夫婦」を形成していく。


その過程でうまくいかなければ分かれる。

「生物の進化」と同じだ。

環境に適応できないものは淘汰されていく。

だから「似たもの夫婦」しか残らない。


私の持つ凸凹にうまいこと噛み合うような相手は存在するのだろうか。

なんだか絶望的な気配すら漂ってくる。


「うまくいかなければ仕方がない」くらいの気持ちでいいのかもしれないな。

人生なんてものは、意外とやり直しの効くものなのだから、


後悔ばかりの人生よりは、そのほうがよほど良い。

 

「働く環境」が変わるということ

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私はこれまでに一度転職をして、一度出向を経験して、一度オフィスの移転を経験している。

そういうことで「3社4拠点」で働いたことになる。


そして今回、二度目の転職を決めた。

これで私は「4社5拠点」で働くことになる。


平均がどうなのかは知らないが、10数年でこれだけの変化だ。

割と変化のある方なのではないかと感じている。

それと同時に「私はこれだけの変化を乗り越えてきたのか」とも感じる。


思い返してみると、今の職場が私の社会人人生で一番長く通っている場所となる。

そこを離れることになるものだから、どこか名残惜しさはある。


ありがたいことに「退職後も手伝ってくれないか」という打診があったりもする。

どうなるかはわからないが、それは私としても望むところだ。


「収入源は多いに越したことはない」という合理的な理由を抜きにしても、

「つながりが途切れるわけではない」というところを嬉しく思ったりもする。


いずれにしても、また大きく環境が変わる。


立場に胡坐をかいていたつもりはないけれど、

今の職場ではかなり自由に働かせてもらっていた。


それなりに成果をあげていたものだから、

ある程度のわがままは通っていたし、

気を使うよりも気を使われる方が多かったかもしれない。


その環境を手放して、

またゼロからのスタートとなる。


「働く環境が変わる」


それは一日の大半を過ごす場所が変わるということ、

加えて、一緒に過ごす人が変わるということでもある。

それってかなり大きいことだ。


もちろん「不安」はあるけれども「楽しみ」な面もある。


ここ最近は職場で「ますをが言うならば」みたいなバイアスを感じていた。

私が主張するならばとりあえず正しいみたいな空気、

「本当にそれでいいの?」って、そこに違和感を感じていた。


その実績という「看板」を下ろした私がどこまで通用するのか。

 

全く通用せずに新しい環境では「こき下ろされる」かもしれないけれど、それはそれで「伸びしろ」があるということだ。


その辺りの感覚、

我ながら「変態」なのだと思う。


「成長フェチ」で「成長マニア」

努力していないと自分を認めてあげられない「努力依存症」

私はそういう性質の持ち主で、そこに価値を見出しているのだろう。

 

私はきっとビビりながらも自信があって、自分のことが大好きなナルシスト、

ドSでドMなのだ。

 

現場がコロコロ変わるような職種ではないから、

とても大きな転機であることに間違いはない。

 

またメンタルをやってしまわないように気をつけないといけないな。

 

「読んでもらいたい記事」と「そうでもない記事」

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私は基本的に自分のために記事を書いている。


テーマは「私と世界との関わり方」

目的は「より濃く生きるため」

なんとも中二病臭さを感じる動機だ。


得たものは少なくないと感じている。

「興味のある事柄」や「日々の出来事」をすくい上げて文字に起こす。

その愚直な反復演習を毎日3年ほど続けてきた。


「書かずにはいられない」

「書かないと生きていけない」


たまに見かける言葉だけれども、私もおそらくその域に達している。

「ある種の病気」なのかもしれない。


さて表題の件、


そんな調子でブログを続けているものだから、

誰も得をしない「自分のためだけの記事」も多く投稿している。


現状を俯瞰して客観的に見た自分を考察する記事、

自分の内面から湧き出た言葉を拾い集めて形にするポエムのような記事、

完全に私しか得をしない書き物だろう。


もしそこに読者が「価値」を見出せるのであれば、

それは「共感」という代物のなせる業だろうか。


私と同じような課題を抱えていて、

藁をもすがる思いで私の記事を読み、少し心が軽くなる。

もしかしたら、そういう効果はあるのかもしれない。


だから私にとっては「そうでもない記事」

つまり「別に読まれたいと思っていない記事」であっても、

それが誰かにとって価値のあるものになる可能性はある。


詰まるところ、私は私の気の向くままに、好きなことを書いていればいいのだろう。


逆に「読んでもらいたい記事」


代表的なものはスワローズの応援記事だろうか。


私はスワローズを物心ついたころから応援しており、

もはや「チームの一員」という自覚すらある。


だからどこか「スワローズの魅力」というものを広く伝えたいという意図があるのだろう。

自然と記事には熱がこもる。


そして「社会問題」や「持論」を述べる記事、

拙い主張ではあるけれど、少なからず「世界に物申したい」という気持ちはある。

 

だからこの手の記事は「読んでもらいたい記事」ということになる。


ブロガーとしては、この手の記事を増やしていくべきなのだろう。

 

だけれども、この手の記事を書くには「意志」が必要になる。


自然と湧き上がる熱がなければ書き出しても「尻切れトンボ」となってしまうのだ。

そういう状態で止まっている下書きは多い。

 

だから「書きたい」と思ったときにザっと書き上げる。

細かいところは後で手を加えればいい。

そんなスタイルで書いている。


私は「私」に興味がある。

そして「人」に興味がある。


「私」を含む「人」の中に渦巻く感情、

その大きさはあまりに大きく計り知れない。

だからそこに「真理」があるのかもしれないと期待しているのだろうか。


私は何か「答え」を探して書き続けているのだろうか。

それとも「道中楽しみたいだけ」なのだろうか。


動機はともかくとしても、

私にとって「書くこと」はもはやライフワークとなっている。


少し「私の書いているもの」について考察したくなったので、このような記事を書いてみた。


全ての記事に「意志」があるわけではない。

だけれども、どんな記事が誰かの心に届くのかはわからない。

だから「書くこと」それ自体に意味はあるのだと思う。


少なくとも「書き手」である私には意味がある。

だから、こうして今日も私は書き続けるのだ。

 

一年越しのブロガーバトン


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ちょうど一年位前にブロガーバトンというものが流行りました。

tureture30.hatenadiary.jp

 

私も何人かに回したのですが、どうやらタイムカプセル的に戻ってきたようです。

 

1年前に私がバトンを渡した静吉さん (id:i-shizukichi)

1年後の予約投稿をしてくださったみたいです。

  1.  

    i-shizukichi.hatenablog.com

 

これは私にも回した責任があるので、その責任は果たさないといけない。

ということで書いてみました。

 

一年前と比べてもブログの概要は全く変わらない。

私が30代であることも変わらない。

変わったのは記事数だけ、

 

これ、一年前のを確認してそのまま書いたのではないのですよね。

改めて書き起こしたものです。

ディテールは違っても「ひとことメッセージ」まで全く同じことを書いています。

 

1000日連続でも更新を経て、リアルの環境は大きな転機を迎えていますが、良くも悪くも、私のブログに対する姿勢は1年たっても全く変わらないということでしょうか。

 

ルールとしてお気に入りの記事を貼らなくてはなりません。

お気に入りと言ってもなー。

去年は迷わずに「パニック障害」の記事を貼りました。

 

tureture30.hatenadiary.jp

 

私にとってはとても大きな記事、

始めた時にこの記事を書くことだけは決めていました。

これを超えるような記事はまだ書けていないかもしれないです。

ということで、これがお気に入りの記事です。

 

ブログの世界での私、

一年たっても全く変わらないということに気がつかせていただきました。

 

淡々と自分を客観視して文字に起こす。

私にとっての「投稿」はそんな作業です。

 

だから、「観察対象である私」に変化があったところで、「書き手としての私」は変わらないのかもしれませんね。

 

それは面白い発見でもあります。

それだけ私はブログを割り切ったものとして見ているということ、

 

この姿勢はおそらく変わらないでしょうね。

そのことを確認するいいきっかけとなりました。

 

静吉さん一年越しの投稿ありがとうございました。

 

「非合理的なもの」の価値が上がっていく

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「合理的」に考えられるものからどんどん効率化されていく。

そうなると、あとに残っていくのは「非合理的なもの」だ。


「なんかいいよね」みたいなやつ、

「娯楽」や「芸術」がそこに当てはまるだろうか。


そもそも人間と言うものは「不完全な生き物」だ。

だからこそ「不完全なもの」に惹かれる面がある。


「完璧」だと息が詰まってしまう。

だから「ホッとできる環境」が必要なのだ。


「無駄に時間をかける美徳」


「丁寧な暮らし」と言い換えることができるだろうか。

「時間をかけて作り上げたものは良いもの」

そういう風潮すらあるくらいだ。


日本は経済成長率で後れを取っていて、

そこの「競争力」で勝負しても見通しは明るくはない。

大勢の意見はそこに落ち着くだろう。


コモディティ化


「効率の良さ」はもはや限界に近付いているのかもしれない。

だから別の「付加価値」をつけて差別化する。

すでに「消費」はそっちの方向に進んでいるのだろう。


そうなると「勤勉さ」が売りの日本人にも勝機があるのではないか。


職人の作る伝統工芸品や、匠の作り出す味、

ほとんどわからないところまで完成度を追求する姿勢、

そこに「美徳」を持って働いてきた日本人、


何とかその強みを生かせないものか。


もちろん「効率化」は必要なんだけれども、

「テーゼ」というか「共通の目的」と言うものに乏しい。


少し前にドラマでもやっていた池井戸潤さんの『下町ロケット

 

下町の工場だけれども、技術に懸ける思いを前面に押し出して、

大企業にコンペで勝ち「ロケット品質」という誇りを打ち立てた。


働き方改革

社畜になるな」

「仕事はそこそこでいい」


もちろん体を壊したら元も子もないけれど、

そういう社会の方向性は「日本」に合っているのだろうか。


プライベートに仕事以上に情熱を燃やせるものがあればいいけれど、

それにしてもなかなか難しいこと、

それならば「仕事に生きがいを求める」と言うのも選択肢の一つだ。


なんだかそれが「悪」だと思われる風潮、

そこに「違和感」を覚える。


舵取りが下手すぎて「右」か「左」の二択しかないのかな。

自分の頭で考えることをしてこなかったツケが回ってきているのではないか。


教育自体に問題があるのかもしれないけれど、

「金太郎飴」のようなビジネスマンは、そのうち淘汰されてしまうだろう。


おそらく私も「金太郎飴」の域を脱していないビジネスマンの一人、

何か「差別化」できる価値を見出す必要がある。


そのヒントが「非合理的なもの」の中にある気がするのだ。

大谷翔平選手の「メジャー日本人最多シーズン31本塁打」に対する松井秀喜氏のコメントに思うこと

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大谷翔平は常識をはるかに超えた存在だ。

世界最高峰のメジャーリーグにて投手として3勝をあげながらも打者としてこれまで本塁打王に位置している。

 

もはや、あまりにも現実離れしていて漫画の主人公として描いてもバカにされるようなレベルの成績を残している。


先日、その大谷はシーズン半ばにして松井秀喜氏が記録したメジャーでの日本人最多31本の記録に並んだ。

 

それに対する松井氏のコメントがなんとも良いものだったので紹介したい。


私は長距離砲として期待されながら期待に応えることができなかった。

野球ファンの方たちは自分の姿にもどかしさを感じていただろう。

大谷君は間違いなくメジャーでも長距離砲としてトップクラスの存在に位置する。

その姿を見て、野球ファンは私に向けていたもどかしさをスッキリさせているのではないか。

私も同じような気持ちで「唯一無二」の大谷君の活躍を楽しみにしている。

 

そんな趣旨のものだった。
なんとも「誠実さ」に溢れたコメントだ。


私はヤクルトファンなものだから、巨人時代の松井氏は天敵だと思っていた。

もちろん、メジャーに挑戦してからはその姿を見て応援していたけれど、どこか昔に引きずられてあまり良い印象を持てないままでいた。


メディアで報道されるたびに「人格者」なのだなという認識は深まり、なんとなく「良い人」という印象に変わっていったけれど、今回のコメントを読んで、素直に「素晴らしいな」と感じた。


本人は謙遜しているが実績は申し分ない。

名門ヤンキースでシーズン31本塁打

勝負強い打撃で存在感を発揮して、打点を荒稼ぎ、

ワールドシリーズのMVPという快挙も手にしている。


それでも「自分は期待に応えられてはいなかった」

松井氏の中にはそういう思いが残り続けていたことに驚く。


「日本人最高のスラッガー」として名前が挙がってもおかしくない選手、


「松井だったらもっとホームランを打てたはず」

そうした大きな期待を背負って生きていくことの大変さ、

そういうものを垣間見た気がする。


日本ではシーズン50本を放っても、メジャーでは31本、

純粋なパワー勝負の中での「長打力」という点では日米にそれくらいの実力差はあるのだろう。


だからこそ、大谷翔平のすごさは際立つ、


もはや「日本人」という枠に収まる存在ではないのかもしれないけれど、

日本人として全国民の期待を背負い活躍を続ける姿に励まされる。


「二刀流」として日ハムに入団したときは「そんなに甘くはない」と懐疑的な意見も多かった。

メジャーに挑戦したときも現地ではおおむね同じ反応だった。


それを覆す彼の存在、

もはや「異次元」だ。


「野球を上手くなることしか考えていない」

これだけ才能に恵まれた選手が人生のすべてを野球に懸けているのだ。

その成長は止まることを知らない。


今年の大谷はどれだけすごい記録を残すのだろうか。

野球ファンとして楽しみだ。

 

「JCとおっさんの純愛もありうる」という発言に思うこと

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先日、どこかの政治家が「JCとおっさんの純愛もありうる」などと気持ちの悪い発言をしていた。

「50歳近くの自分が14歳の子と性交したら、たとえ同意があっても捕まることになる。それはおかしい」

やり取りの中だから話の流れもあったのだろうけれど、オブラートに包まず書くとこんな発言だったようだ。

 

「純愛」

 

「ある」か「ない」かで言えばあるのかもしれないけれど、おっさん側に下心があるのであれば、それはただの犯罪でしかない。

 

この発言がされた場での議論は、現在13歳とされている「性交同意年齢引き上げ」の是非を問うものだった。


少なくとも相手の将来を考えた上での「純愛」というのであれば、完全にプラトニックな関係に留めるべきだ。

 

それを「子供」だからと老獪に手込めにして行為のチャンスを伺う。

完全に弱肉強食の構図、


どんなに相手が望んでいたところで、将来の責任を取ることにならなければ、おっさんである自分と行為を行うことが、相手の人生を傷つけることになると自覚していないはずはないだろう。

どれだけ「将来の責任を取る」と息巻いたところで、良い大人ならばそれが難しいことくらい容易に想像できる。

相手のことを思えば、安易に先に進むはずはないのだ。

 

あくまでも「自立した一個人」

お互いが相手のことをそのように見ていなければ、「恋愛関係」というものは成り立たない。


どちらかが相手を「道具」のように見ていたら、もはやそれはギブアンドテイク、

ただの契約行為に過ぎない。


対価を払って関係を続ける。

養ってもらう代わりに自由を捧げる。

どうひっくり返ったところでそれを「純愛」とは呼ばない。


妙齢になって相手がいないから婚活をして結婚する。

少し前までは私もその渦の中にいたわけだけれども、そこにも「純愛」なんてものは生まれないのかもしれない。


そもそも、互いが好きでたまらないから結婚した夫婦ってどれくらいいるのだろう。

実際そんなに多くはないのかもしれない。

私の心が荒んでいるからそう思うのだろうか。


男は性欲を満たすために、

女は不安を解消するために、

互いを「道具」として見定めて一緒になる。


そういう感覚が当たり前になってしまったから、

先のようなシチュエーションを平気で「純愛」と呼ぶことができるのだろうか。


これ以上ないくらいに袋叩きにされていることが救いか。

少なくとも世論はこれを「気持ち悪い」と思っている。

 

「気持ち悪さ」の正体、


だけれども、ともすると自分も「気持ち悪いこと」と同じようなことをしているのかもしれない。

相手の年齢は関係ない。

 

そういうサービスを利用したことのある人ならばみな同じだし、

そういうサービスを提供したことのある人だって同じだろう。


「気持ち悪い」


「風俗」も「パパ活」も「利用者」も「提供者」も根っこは同じ、

相手を「道具」として見ているのだ。


「年齢」にばかりフォーカスしているけれども、

「気持ち悪い」のは「年齢」ではなく「人の醜さ」なのかな。


相手を「道具」にして自分の欲望を満たそうとする浅ましさ、

少なくとも私はそこに「気持ち悪さ」を感じるのかもしれない。


相手からアプローチがあったとしても、それに対する自分の気持ちの出所が「誠実なもの」であるかどうか、

それを確かめているうちにチャンスを逃す。


私はこれまでそういう人生を歩んできた。


自分が聖人君子だとか主張するつもりはない。

AVは見るし、女性の胸ばかりを見ている自覚はある。


残念なことに、この一文で全く説得力を失った私の文章、


だけれども、一つだけ主張したいことは、

「一時の感情に流されるのでなく、相手の気持ちに寄り添い続ける覚悟はあるの?」

「行為をするってことは、そういう覚悟を持たなければいけないんじゃないかな」ってことだ。


ある意味これは「童貞」だから言えることでもある。

私は一度も「無責任な行為」をしたことなどないのだ。

それは私の強みでもあるのかもしれない。


そうやってカッコつけたところで、ただチャンスを逃し続けただけのヘタレなのだけれども、

 

かつて、彼女と2晩共に過ごしても手を出せなかった私だ。

それなりには説得力があるだろう。

ここぞとばかりに少しくらいはカッコつけさせて欲しい。