「JCとおっさんの純愛もありうる」という発言に思うこと

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先日、どこかの政治家が「JCとおっさんの純愛もありうる」などと気持ちの悪い発言をしていた。

「50歳近くの自分が14歳の子と性交したら、たとえ同意があっても捕まることになる。それはおかしい」

やり取りの中だから話の流れもあったのだろうけれど、オブラートに包まず書くとこんな発言だったようだ。

 

「純愛」

 

「ある」か「ない」かで言えばあるのかもしれないけれど、おっさん側に下心があるのであれば、それはただの犯罪でしかない。

 

この発言がされた場での議論は、現在13歳とされている「性交同意年齢引き上げ」の是非を問うものだった。


少なくとも相手の将来を考えた上での「純愛」というのであれば、完全にプラトニックな関係に留めるべきだ。

 

それを「子供」だからと老獪に手込めにして行為のチャンスを伺う。

完全に弱肉強食の構図、


どんなに相手が望んでいたところで、将来の責任を取ることにならなければ、おっさんである自分と行為を行うことが、相手の人生を傷つけることになると自覚していないはずはないだろう。

どれだけ「将来の責任を取る」と息巻いたところで、良い大人ならばそれが難しいことくらい容易に想像できる。

相手のことを思えば、安易に先に進むはずはないのだ。

 

あくまでも「自立した一個人」

お互いが相手のことをそのように見ていなければ、「恋愛関係」というものは成り立たない。


どちらかが相手を「道具」のように見ていたら、もはやそれはギブアンドテイク、

ただの契約行為に過ぎない。


対価を払って関係を続ける。

養ってもらう代わりに自由を捧げる。

どうひっくり返ったところでそれを「純愛」とは呼ばない。


妙齢になって相手がいないから婚活をして結婚する。

少し前までは私もその渦の中にいたわけだけれども、そこにも「純愛」なんてものは生まれないのかもしれない。


そもそも、互いが好きでたまらないから結婚した夫婦ってどれくらいいるのだろう。

実際そんなに多くはないのかもしれない。

私の心が荒んでいるからそう思うのだろうか。


男は性欲を満たすために、

女は不安を解消するために、

互いを「道具」として見定めて一緒になる。


そういう感覚が当たり前になってしまったから、

先のようなシチュエーションを平気で「純愛」と呼ぶことができるのだろうか。


これ以上ないくらいに袋叩きにされていることが救いか。

少なくとも世論はこれを「気持ち悪い」と思っている。

 

「気持ち悪さ」の正体、


だけれども、ともすると自分も「気持ち悪いこと」と同じようなことをしているのかもしれない。

相手の年齢は関係ない。

 

そういうサービスを利用したことのある人ならばみな同じだし、

そういうサービスを提供したことのある人だって同じだろう。


「気持ち悪い」


「風俗」も「パパ活」も「利用者」も「提供者」も根っこは同じ、

相手を「道具」として見ているのだ。


「年齢」にばかりフォーカスしているけれども、

「気持ち悪い」のは「年齢」ではなく「人の醜さ」なのかな。


相手を「道具」にして自分の欲望を満たそうとする浅ましさ、

少なくとも私はそこに「気持ち悪さ」を感じるのかもしれない。


相手からアプローチがあったとしても、それに対する自分の気持ちの出所が「誠実なもの」であるかどうか、

それを確かめているうちにチャンスを逃す。


私はこれまでそういう人生を歩んできた。


自分が聖人君子だとか主張するつもりはない。

AVは見るし、女性の胸ばかりを見ている自覚はある。


残念なことに、この一文で全く説得力を失った私の文章、


だけれども、一つだけ主張したいことは、

「一時の感情に流されるのでなく、相手の気持ちに寄り添い続ける覚悟はあるの?」

「行為をするってことは、そういう覚悟を持たなければいけないんじゃないかな」ってことだ。


ある意味これは「童貞」だから言えることでもある。

私は一度も「無責任な行為」をしたことなどないのだ。

それは私の強みでもあるのかもしれない。


そうやってカッコつけたところで、ただチャンスを逃し続けただけのヘタレなのだけれども、

 

かつて、彼女と2晩共に過ごしても手を出せなかった私だ。

それなりには説得力があるだろう。

ここぞとばかりに少しくらいはカッコつけさせて欲しい。