直木賞受賞作、
随分前に読んだ本だが、
なぜか「読みたい」と心が問いかけてきた。
導かれるように購入し再読した。
紛れもない名作だ。
この時に読んで良かったと思う。
テーマは「死の恐怖、その根元と向き合うこと」
そんなところだろうか。
巻末の書評に印象的な言葉があった。
「死」は等しく訪れるが、
「死者」の扱いは決して等しくはない。
その人が歩んだ道のりによって、
周りはその人の人生を評価するのだ。
だけれども、
主人公である「悼む人」は、
その「死者」に差別をしない。
死の原因を掘り下げることなく、
「死者が誰に愛させて、誰を愛して、どのようなことをして感謝されたか」
ただそのことだけを書き留めて、
時には想像して「悼む」
「私は可能な限り、あなたが存在したことを覚え続けます」
それが彼に取っての「悼む」という行為だ。
そのような存在が世界に一人でもいるだけで、
人は救われるのだ。
この世に生きた証を残すことができるのだから、
話は変わるけれど、
私には思い出す故人がいる。
幼い頃に家族ぐるみの付き合いをしていた、
父母の友人夫婦だ。
毎年いっしょに旅行に行き、
子供に恵まれなかった夫婦は、
私を実の息子のように可愛がってくれた。
もうかなり前にはなるけれど、
その奥さんが病気で亡くなったとの連絡があった。
落ち着いてしばらくすると、
特に用事があったわけではないのに、
一人になった旦那さんからうちに連絡があった。
とても寂しい思いをしているようだった。
電話で「私と話したい」とのことなので、
母から電話を代わりしばらく話すと、
「遊びに来てほしい」と、
切にお願いされたことが記憶に残っている。
ところがその約束を果たす前に、
旦那さんも病気で亡くなった。
奥さんが亡くなってから、
そう年月は経っていなかったはずだ。
もしかしたら何か「虫の知らせ」があって、
「会いたい」と思ってくれたのか。
そう思うと今でもやるせない気持ちになる。
「遊びに行けばよかったな」
今でも私はそう思っている。
だけれども、
もしかしたらそのことで、
「会いに行けなかった」ことで、
私がご夫婦を「悼む」ことになっているのかな。
本人たちに知らせる術はもうないのだけれども、
そう思うと私も少し救われる。
「自分の人生が無価値なんじゃないか」
人は「意味を求める生き物」だから、
「死」という現象よりも、
「死」によって「自己存在」が消滅する、
そのことを恐れているのかもしれない。
核家族化が進んで久しく、
「孤独死」は今後も増えるかもしれない。
その人たちが最後に思うこと、
「果たして自分の人生にどれほどの価値があったのだろうか」
「命の重さ」
そればかりがお題目のように喧伝されている。
だけれども、
「命の使い方」
そのことにももっと目を向けるべきなんじゃないかな。
最後の最後にはさ。
向き合うことになるんだよ。
その時に後悔しても手遅れなのだ。
孫の産声を聞くと同時に旅立つ、
「悼む人」の母、
最後の最後まで自ら決めた「命の使い方」
それを貫いた。
人にはそれぞれ使命があって、
それに気がつくことなく終わる人生もあるけれど、
それを掴み取るために必死にもがく最後もある。
目の前にぶら下がった「にんじん」のように、
「もう少し、もう少し」って、
「使命」ってやつに生かされながら生きる最後、
今にも消えてしまいそうな命の灯火を、
大事そうに手で囲ってあげて、
それを見守りながら迎える最後の瞬間、
その時にそばに居てくれる人たちが、
手を握っていてくれる人が、
きっと人生で一番大事な人たちなのだろう。
「悼む人」
人知れず逝ってしまう人たちのセーフティネット、
時代が希求してやまないある種の「救い」のような存在だ。
だけれども現実には存在しない。
私たちは自分で自分を「悼む人」を、
人生をかけて見つけなければならないのだ。