「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「信念」と「合理性」のせめぎ合い

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私がこれまで獲得してきたアイデンティティ


それに固執するあまり、

「合理性」を欠くことがしばしばある。


多くの場合、

素直に「合理性」に身を任せた方が楽だ。


そんなことはわかっているのだけれど、

そうできないのが「私」なのだ。


簡単に手放してしまったら私ではなくなる。

無意味に意固地になりすぎて、

手放すことができないもの、


一見、無意味に思えるけれど、

その中に「いきがい」が隠れているのかな。


「人生の大半は自由時間」


そんなCMがあったけれど、

現代人はその自由時間を、

何かで埋めようとしすぎているのかもしれない。


だから「マインドフルネス」なんてものが流行るのだ。


「合理性」に身を任せるほどに、

「自由時間」は増える。


増えた「自由時間」を利用して、

「信念」を形作る。


結局、私が私の人生を生きるためには、

「信念」に時間を使うしかない。


そう考えると、

「自由時間」から「自由」は失われる。

おかしな話になってくる。


「生きる」ということ自体が、

「非合理的なもの」なのだ。


「合理性」を追求した先にある社会、

その中で人は「自分の人生」を生きられるのだろうか。


最近よく感じること、

「あそびを作ることの大事さ」


グレーゾーンは生きるために必要なのだ。

なんにでも白黒つけてしまったら窮屈になってしまう。


だから「信念」に殉ずる必要はない。

だけれども「信念」を蔑ろにしない。


それくらいの立ち位置がちょうどいいのかな。

 

「信念」と「合理性」のせめぎ合い。

せめぎ合うことにすら疲れてしまった。


それを「生きることに疲れてしまった」と、

そう思っていたけれど、

それは違うのかもしれない。


少し見方を変えてあげれば、

「せめぎ合う」必要なんてないのだ。


自分が気持ちよく生きられるように、

「信念」でも何でも都合よく解釈をして、

それなりに生きていけばいいのだ。


あまりにも向き合いすぎてしまうと、

「信念」は「毒」になる。


「毒」になってしまったら、

もはや人生の重荷でしかない。


そんなものは捨ててしまえばいい。


そして必要ならば、

また新たにこしらえてやればいい。


「信念」も「合理性」も、

都合よく使い分ければいいのだ。


考えなしのバカのほうが、

世の中、幸せに生きられるのだから、

 

自分の人生の責任は、

自分しか取ってはくれない。

そのことだけは忘れてはならない。