私がこれまで獲得してきたアイデンティティ、
それに固執するあまり、
「合理性」を欠くことがしばしばある。
多くの場合、
素直に「合理性」に身を任せた方が楽だ。
そんなことはわかっているのだけれど、
そうできないのが「私」なのだ。
簡単に手放してしまったら私ではなくなる。
無意味に意固地になりすぎて、
手放すことができないもの、
一見、無意味に思えるけれど、
その中に「いきがい」が隠れているのかな。
「人生の大半は自由時間」
そんなCMがあったけれど、
現代人はその自由時間を、
何かで埋めようとしすぎているのかもしれない。
だから「マインドフルネス」なんてものが流行るのだ。
「合理性」に身を任せるほどに、
「自由時間」は増える。
増えた「自由時間」を利用して、
「信念」を形作る。
結局、私が私の人生を生きるためには、
「信念」に時間を使うしかない。
そう考えると、
「自由時間」から「自由」は失われる。
おかしな話になってくる。
「生きる」ということ自体が、
「非合理的なもの」なのだ。
「合理性」を追求した先にある社会、
その中で人は「自分の人生」を生きられるのだろうか。
最近よく感じること、
「あそびを作ることの大事さ」
グレーゾーンは生きるために必要なのだ。
なんにでも白黒つけてしまったら窮屈になってしまう。
だから「信念」に殉ずる必要はない。
だけれども「信念」を蔑ろにしない。
それくらいの立ち位置がちょうどいいのかな。
「信念」と「合理性」のせめぎ合い。
せめぎ合うことにすら疲れてしまった。
それを「生きることに疲れてしまった」と、
そう思っていたけれど、
それは違うのかもしれない。
少し見方を変えてあげれば、
「せめぎ合う」必要なんてないのだ。
自分が気持ちよく生きられるように、
「信念」でも何でも都合よく解釈をして、
それなりに生きていけばいいのだ。
あまりにも向き合いすぎてしまうと、
「信念」は「毒」になる。
「毒」になってしまったら、
もはや人生の重荷でしかない。
そんなものは捨ててしまえばいい。
そして必要ならば、
また新たにこしらえてやればいい。
「信念」も「合理性」も、
都合よく使い分ければいいのだ。
考えなしのバカのほうが、
世の中、幸せに生きられるのだから、
自分の人生の責任は、
自分しか取ってはくれない。
そのことだけは忘れてはならない。