喜びを共有する中に絆は生まれる。
私の拙い人生経験を通して、そのことを実感する。
そして、苦しみを共有する中にも絆は生まれる。
それも経験から実感する。
要は、感情を振るわせた経験を共有することで、私たちは他者とのつながりを実感することができるのだ。
それならば、誰かと感情を振るわせることができるならば、孤独を感じることなどない。
誰もが、それを求めている。
「生きている実感」を得たいと願っている。
そして、その答えは人との繋がりの中にあることを、漠然と気がついているのだ。
「傷つくことが怖いだけ」
感情をむき出しにした時は当然無防備になる。
自分の心の柔らかいところを相手に晒すわけだから、相手に悪意があれば、致命傷を与えられることもある。
だから怖いのだ。
だけれども、そこから踏み出さなければ先に進むことはできない。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という通り、リスクのない投資などない。
自分から心を開くからこそ、相手も心を開いてくれることもある。
「基本的に」大体の人はいい人だ。
少なくとも、悪意を垂れ流して生きているような悪人は、世の中にそうそういるものではない。
だから、過剰に恐れる必要はない。
人と多く接していると自負している私でさえ、今の年齢で新たに友達を作ることは難しいと感じている。
おそらく、それは心を震わせる機会が減っているからだ。
そして、それを誰かと共有する機会は限られるし、誰かと共有したとしても、既存の繋がりの中だけで満たされる。
歳を取れば取るほどに、心を遠出させることがおっくうになるのだ。
今の私は何を求めているのだろう。
何かに追われながら生きている。
タスクは山のように降り注ぐから、それをこなすだけで精一杯だ。
どんなに忙しくても心にゆとりを持ちたい。
そのためには、とことん遊ぶためのまとまった時間を無理にでも作ることか。
「新しいこと」をしなければ、なかなか心を動かすことはできない。
それを「誰かと共有」となると、必然的に妻が相手になる。
最近は、妻と手を繋いで寝ることが増えた。
これもまた一つ「安らぎ」という感情を振るわせた経験を共有することなのかもしれない。
お互いに疲れているのかもしれない。
社会は容赦ないから。