社会人生活も10年以上となるけれど、
6年以上同じ建物で働き続けた経験はないことに気が付いた。
そう考えると表題の通り、
転校を経験していない私が最も長い期間通い続けた建物は「小学校」ということになる。
「だから何だ」と言われたらそれまでなのだが、
ものすごく意外だったので思わず筆を執ってしまった。
よく記事にしている通り、ここ最近の私は「停滞感」を強く感じていた。
だから自ら風を起こすことで、その「停滞感」を飼いならそうと躍起になっている。
単純に「コロナ禍だから」とか、
「ライフステージが進まないから」だとか、
この「停滞感」ってやつにそんな理由を押し付けてきたけれど、
そもそも私は「変わらない環境」というものが苦手なのかもしれない。
「小学校」が最長なくらいだから、
少なくともこれまでそれを経験していない。
そういう機会があまりなかった。
そういうことになるのかな。
「変化はストレス」
悪いイベントはもちろん、良いイベントであれ、
人にとって変化はストレスになるのだ。
そして「ストレス」そのものが悪というわけではない。
「適度なストレス」は人生を豊かにするために必要なもの、
全くの「無風」では心は動かない。
「人生」ってものはさ。
「人生」ってものは「生きている実感」が必要なのだ。
目の前のチャンスを手放して安堵することもあれば、
めちゃくちゃな逆境に心躍ることもある。
人の心なんてものは「気まぐれ」
変化を目の当たりにしたとき、
その時に湧きたつ「感情」の他に正解などないのかもしれない。
先のことばかり考えてさ。
こうすることが「正解」だなんてこだわってさ。
そんなものは意思決定の構成要素の一つでしかない。
将来のことにばかり身を馳せてさ。
足元を疎かにして「満たされない」と喚く。
そんなクセが板について、
若いうちから老後のことばかりを考えるようになる。
確かにそうせざるを得ない社会にも問題はあるけれど、
誰かのせいにしたところで誰も自分の人生に責任を取ってはくれないのだ。
「若いって良いな」って、
「若いって良いな」って、つくづく思うよ。
それは私が後悔を繰り返してここに辿り着いたということもあるけれど、
もっと「チャレンジしたい」
自分の立場や環境に言い訳することなく、
全てのものをかなぐり捨てて「チャレンジしたい」
そういう気持ちが強いように感じる。
おそらく私のライフステージが進んでいれば、
こんなことは考えなかったのだろう。
新しい「家庭」というものを構築できていれば、今頃はてんやわんやしているのかもしれない。
だけれども、私には情熱を傾けるものがない。
もちろん「やるべきこと」はやっているけれども、
どこか「虚しさ」を感じ続けているのだ。
もしもこのままの状態で、あと40年、50年生きてくれと言われたら、
私は途方に暮れてしまう。
私はきっと「変わらない」ということに耐えられないのだ。
それは誰のせいでもなく、私の持つ気質、
手の届くところからいろいろと手を付けてはみたけれど、
「夢中のなれる期間」は一過性で終わる。
「生きる」ために、風を起こし続けるしかないのかな。
いつまでも、風を起こし続けるしかないのかな。
おそらくそれは「家庭」があったところで同じなのだろう。
私は自分のことを割と「保守的な人間」だと思っていたけれども、
どうやら自己分析に大きな誤りがあったようだ。
結局は「私の問題」
課題を誰かのせいにしたところで、
ブーメランのように自分に返ってくるのだ。
「楽しく生きたい」のならば、
私は私らしく主体的に生きるしかない。