いわゆる「種の保存」
それを目的に生物が生きているとするならば、
自分の命を長らえることが生きる目的であると言える。
しかし、実際に人は「命の使い道」を考えながら生きている。
目的がなければ生きていけないのだ。
「なんのために生きるのか」「なんのために生まれてきたのか」
それを突き詰めるために時間を使うことが、生と向き合うということなのかもしれない。
私がよくブログに書く言葉として「人生は自己責任」という言葉がある。
自分の選択に責任を持って生きなければ、誰の人生を生きているのかわからなくなる。
昨今の風潮として、自分で選択をすることがコストだと考えるものがある。
食事や服装、マッチングアプリのマッチング機能、今や我々は付き合う相手まで何かに選択を委ねて生きている。
なんでも他人が決めてくれて、なんでもAIが決めてくれて、そのうち『ハーモニー』の世界のように、自らの健康管理まで外注することになるのかもしれない。
ここしばらく考える機会が増えた。
そういう社会にあって、人間が生きることでどのような付加価値を生み出すことができるのだろうか。
オートメーション化が進めば進むほどに、便利な世の中になればなるほどに、人間の果たす役割は縮小していく。
職業はかつてないスピードで淘汰されている。
芸術の分野までAIに取って代わられる勢いだ。
AIを使いこなす技術が優れている人ほど、多くの情報を得て、多くの仕事をこなすことができるようになる。
その格差は大きくなる一方だろう。
さて、私たちの生きる目的。
それは「感情を動かす」ことにあるのではないだろうか。
何かを経験したとき、何かを手に入れたとき、心を震わせるような経験は、良くも悪くもその人固有の財産として脳内に残り続ける。
その結果として形成されたアイデンティティは、何も何も変え難いその人だけの宝物だ。
モノよりも経験にお金をかける時代。
自己存在を脅かされる危機的な状況だからこそ、無意識のうちに誰もが心を震わせる経験を求めているのだ。
「挑戦」の結果として放り込まれた「イマ」ならば、そこで得られる喜びや苦悩は、やがて振り返ると宝物だと気がつく。
誰かの選択に則った結果の「イマ」だから、不満ばかりが溜まるのだ。
自分の人生を自分で勝ち取る、だなんて価値観は、もしかしたら古臭いのかもしれない。
それでも私は人生のオートメーション化に抗いたい。
便利なものは享受しつつも、大事な人生の選択は自分で決めて、その先の人生に責任を負い続けたい。
生きるということは辛く楽しいものなのだ。
楽しいところだけでは味気ない。
順風満帆な人生など一瞬で終わってしまう。
山あり谷ありの方が、生きた心地がするってもんだ。
「自分の人生を生きること」
それが生きる目的なのだ。