これはいい。
くだらない、変わらない、
そんな毎日を愛せるだろうか。
そんな問いかけで終わる曲。
本質的な問いかけだ。
「なぜ生きるのか?」
「なぜ毎日命を繋いでいるのか?」
死ぬことが恐ろしいからか。
だから私たちは惰性で命を繋いでいるのか。
「いや、違う!」
そう確固たる意志を持って主張できるのは、
ライフステージのどこまでなのだろうか。
少なくとも学生の頃の私は、
理想を追い続けて生きていた。
そこから長い時を経て、私の人生は折り返し地点を迎えているのかもしれない。
生に対する感覚が大きく変わることはない。
徐々に薄まっていくのだ。
10才にとっての1年は人生の10分の1だが、
20才にとっての1年は人生の20分の1となる。
時間の価値は変わらない。
しかし、時間の捉え方は変わっていく。
その過程の中で私たちにとっての「生きる意味」も変わっていくのだ。
アメリカの大富豪が多額の寄付を行う理由の一つに、キリスト教の教えが関わっていると聞いた。
多くの財産を持っている人ほど、天国に行きにくくなるのだそうだ。
キリスト教に限らず似たような考え方は多い。
私たちは多くを獲得するために日々生きている。
しかし、どこかのタイミングからは、手に入れてきたものを他の誰かに託すフェーズを迎えるのかもしれない。
手持ちを増やすべきか。
手放すべきか。
その過渡期が一番難しい。
ある面では手に入れて、
別の面では手放すということもある。
その難しいバランス調整の中で生きている。
変わらないと思う毎日。
くだらないと思う毎日。
その中にもちゃんとやるべきことはあるのだ。
やるべきことは、
自分で見つけなければならない。
自分で見つけ続けなければならない。
キラキラに輝いて多くを手に入れる時も、
バランス調整に悩む時も、
手放すことが多くなった時も、
やるべきことはちゃんとあるのだ。
だから私たちは生きる。
毎日を価値のあるものとすべく、
生きるのだ。
米津玄師『毎日』