兆候は必ずある。
どんなに巧妙に隠していたとしても、人に大きな変化が生じる裏には、必ず目に見える兆候があるのだ。
それに周りが気がつくのか、それとも気がつくことができないのか。
それだけのことである。
頑張って働いていた人が突然、手に持っていた風船を離したように、フワッとフェードアウトしてしまった。
職場に体は出しているが、どうも気持ちが上の空なのだ。やる気が感じられない。
昨年くらいは、あれだけ気持ちを傾けていたのに、まるで別人のように変わってしまった。
人生、山あり谷あり。
考え方が変わってしまうこともあるだろう。
しかし、体は変わらずそこにいるのに、気持ちがそこにいない状態というのは、何とも気持ちが悪いものだ。
必要最低限のレスポンスしかない。
コミュニケーションコストが高いから、仕事に影響がないとは言い難い。
精神的、肉体的に疾患があるわけではないようだ。ただやる気がなくなってしまったのだろうか。
離れていくのか。それともこのまま居続けるのか。それすらもわからない。
上の人が直接話す機会を設けているようだが、肝心なところの回答ははぐらかされるようで、本人の意思を確認することはできないようだ。
とりあえず表向きは問題なく振る舞っている。
周りも異変に気がついているから気を遣いながら、最低限は支障がないように接している。
そんな状態がしばらく続いている。
見えているもの、見えていないもの。
人の心は瞬間瞬間で目まぐるしく移り変わっている。
しかし、周りからそれを見ることはできない。もしかしたら本人にもわからないのかもしれない。
それを些細なニュアンスで予測して汲み取りながら人間関係を形成する。
そんな曖昧な状態で折り合いをつけて、社会を形成しているのだ。
どこかで歪みが生じるのは仕方がない。
むしろ、その歪みに対しても忖度をしながら歩調を合わせようと努力するのが「多様性の時代」だ。
そんな風潮が強く蔓延っている。
今の時代は、人に優しくしようと謳いながらも、ある意味では人の可能性を潰しているのかもしれない。
なぁなぁで付き合いを続けていたら、何らかの苦しみを抱えている人からすれば生殺しだ。
前に進むにしても、後退するにしても、早いうちに本人が判断をできるような働きかけが必要ではないだろうか。
面倒ごとに首を突っ込んで、コンプライアンス敵に問題のある行動をしてしまうと、自分に被害が及ぶから、誰も突っ込んだ関係を築こうとはしない。
そういう「分断」の時代に進んでいる。
本来、人をつなぐべき社会に、人が分断されているのだ。
果たして、私たちの在り方は正しいのだろうか。
そこに対する思考を停止してしまったら、もはや人の存在価値など社会に飲み込まれてしまうのかもしれない。
私たちは、考え続けなければならないのだ。