先日、機会があり就活をしている学生と、
オンラインで面談をする機会があった。
私の仕事とは全く関係のない筋からの機会だ。
相手は私立上位校の院生だ。
せっかくなので私の他数名で、
社会人として質問を受けることになった。
彼は業界研究をしっかりしているし、
受け答えからは誠実さを感じられる。
こちらの声に真摯に耳を傾ける姿勢には好感を持つ。
率直に「良い学生だな」という印象だ。
最初の質問は「長く働く上での不安」が見て取れるものだった。
私は口火を切ると、
口調こそ穏やかだったと思うが、
社会の現実をオブラートに包むことなく伝える。
私が一通り話し終えると、
それからほどなく絶妙の間を開けて、
ゆっくりと相手の不安に寄り添う発言が続く。
話しを始めた社会人の彼は落ち着いた調子で、
自らの就活を通して得た経験と共に、
質問に対する回答は濁して話を続ける。
その上で、私の話したことを引用しながら、
「そういう面もあるけれど、それが全てではない」と述べて結ぶ。
結論としては何も断定することなく、
「単に感想」の域を脱しないのだけれども、
自らのイデオロギーを主張しない彼の言葉、
その上での説得力には舌を巻いた。
「話す内容」も大事だけれども、
それよりも大事なことは「相手への伝わり方」だ。
極端な話、
「尤もなことを、尤もらしく説明する」
そういう当たり前のことを説得力をもって話せるということは、
すごい技術なのかもしれない。
私の言葉の端々には、
おそらく「自意識」が散りばめられていた。
振り返ると、これ見よがしに持論を振りかざし断定的な物言いだったように思う。
そういうところなのかもしれないな。
私はその場における「責任を果たすこと」に、
重きを置いているのかもしれない。
「質問されたことに対して答える」
確かにそれが「責任を果たすこと」なのかもしれないけれど、
質問した就活生からすれば「私の持論」よりも、
「不安を軽減してくれる言葉」のほうが何倍も心に響くのだ。
どのような場面でも、
まずは相手の気持ちに寄り添うこと、
そこから会話は始まるのだなと感じた。
打算的なものではなく、
自然と一言目にはそういう言葉が出てくる。
そういう人がきっと本当の「いい人」なのだろう。
「優しい」と評されながらも、
「いい人」にはなり切れない。
私の「弱さ」はそういうところにあるのかもしれない。
もう少し器を大きくしたいと思った。