先日、横断歩道の前、信号待ちで周りを見渡して驚いた。
前を見たら男性が日傘を差している。
そして、右を見ても左を見ても男性が日傘を差しているのだ。
周囲で日傘を差していないのは私だけ。
男性でも日傘を差すことが当たり前になった。
こういう時代になったのか。
思えば、デートをしていた時に妻からも日陰を歩くように言われる。
私が意識をしていなかっただけで、世の中では紫外線の有害性が広まり、日傘が急激に普及しているということなのだろうか。
そもそも私は日傘を差している女性に対しても「邪魔だな」と思っていた。
雨も降っていないのに傘を刺して道を塞ぐ姿を見るたびに嫌悪感を抱いていたのだ。
しかし、紫外線が有害であるという風潮と、異常なまでの暑さにより、価値観はアップデートされているようだ。
日傘は自衛のために差すことが当たり前のように変わっているのかもしれない。
私が時代について行くことができていなかったのだ。
今では日傘も高機能に進化しているらしい。
完全遮光を謳っていたり、
差すだけで傘の内側の気温が少し下がるようなものまであるそうだ。
そういうことはたくさんあるのだろう。
日傘一つとってもそうなのだ。
だから、自分の主観だけで物事を判断して、それを誰かに強要することは避けなければならない。
人には多様な価値観があって、社会では多様な価値観を持つ人たちが力を発揮することが望まれている。
それが企業の価値に転化されて、新たなビジネスモデルの創出につながるとか、つながらないとか、そんな話だ。
誰もが自由に自分らしく生きられる時代。
マイノリティを蔑ろにすることのない時代。
とても聞こえの良い、平和な時代。
そういう時代がそこまで来ているのだろうか。
いや、私はそうは思わない。
「自由」に対する同調圧力。
それに異を唱える人の権利は守られないという側面がある。
本当に全ての人が納得するような世の中にすることは難しいのだ。
だから、バランスをとりながら、みんなが我慢できるところは我慢して生きていく。
男性の体でありながら女子競技に参加してオリンピックのメダルを取った選手がいる。
その選手は望まない形で風評に晒されて、より大きな苦しみを引き受けているのではないだろうか。
結局、誰かが引き受けなければならないのだ。
引き受けたくもない気持ちを、やるせない感情を、憤りを。
マイノリティであるが故に、社会に受け入れられないことは山ほどある。
病気も体型も性癖も、誰しも少なからずマイノリティな側面を抱えながら生きているのだ。
だから、男性が日傘を差したっていい。
多少、道を塞がれて邪魔だと私が思ったとしても、それくらいは私が引き受けるべきなのだろう。
そうやって、みんな生きているのだ。