私は、働く対価として賃金を得ている。
多くの社会人がそうであるように、労働を提供する対価として賃金を得ている。
私が働く理由として、最も大きなものは「生活にはお金が必要だから」だ。
しかし、それ以外にも私が働く理由はある。
「自己実現のため」「社会貢献のため」
その辺りがすぐに思い浮かぶ理由だ。
「自己実現」は動機としてわかりやすい。
働く中で得られる知識や経験を糧として、自身の成長を実感したり、目標としている数値を達成することで達成感を得ること。
かたや、「社会貢献」はわかりにくい。
果たして私は、働くことで「社会貢献をしたい」と本気で考えているのだろうか。
考えれば考えるほどに懐疑的になる。
社会に貢献している実感があれば、自分が「社会」というコミュニティに存在しても良いという理由になる。
言わば、居場所を確保することができるのだ。
その点からすると、社会貢献の動機を突き詰めると、結局は「自分のため」ということになるのかもしれない。
それはそれで非難されることでは無い。
「自己実現」の延長線上に「社会貢献」がある。
そう捉えれば良いだけの話だ。
しかし、その考え方を頭では理解できても、私の中でモヤモヤした感情が残る。
「利他」と「利己」には差がないという考え方が、どうも腑に落ちないのだ。
そこに境目があることを超越してこその「利他」なのではないか。
私の理想はそこにある。
しかし、今の私はまだ到底その境地には至っていない。
それが私の中にあるモヤモヤの正体なのかもしれない。
「社会貢献」
それはホモ・サピエンスが生存競争を生き抜くために遺伝子に組み込まれたプログラムに過ぎないのかもしれない。
しかし、それがあるからこそ人は「利己」に正当性を感じることができる。
もしかしたら、人の精神の屋台骨となるものが、この「社会貢献をしたい」という遺伝子から発せられる指令なのかもしれない。
そう考えると、私の理想は遺伝子の指令に抗うことだ。
それはもしかしたら、私が今から次のロサンゼルスオリンピックで金メダルを取ることよりも難しいのかもしれない。
ただ、人は不可能だと思えることに挑戦する中で、今の文明を築き上げてきた。
初めから「無理だ」と決めつけて生きる人生に面白みなどない。
もしかしたら、私の中には誰も気が付いていない才能が眠っていて、何かの競技で世界で一番になることができる可能性はゼロではない。
無理な理想を追い求めた先に見える景色。
そこに人生を生き抜いたという充実感があるのかもしれない。
それがそのまま「社会貢献」につながるのであれば、なんと素晴らしいことだろうか。
無理難題を押し付けられても、それをポジティブに捉えられるようになりたい。
今の社会が人に対して与える試練は、割に合わないことが多い。
どんなに高い対価を得たとしても、そこに充実感がないのであれば、それは「割に合わない」のだろう。
難しいことを考えている暇があれば、目の前のタスクをこなした先にある充実感で脳を満たしてあげて、ドーパミンやらエンドルフィンの力で、幸せを感じながら馬車馬の如く働き続ければいい。
きっと、それが社会人にとっての幸せなのだ。