いつだってそうだ。
私の人生は、忙しい時に忙しいことが重なる。
タスクは増えていく一方だ。
全てをシャットアウトして、南の島でピナコラーダでも片手にビーチパラソルの下で海を眺めて過ごしたい。
そんなことを妄想したところで、タスクが減ることはない。
それに、私は「忙しい私」のことが好きだ。
「忙しさ」に自らの存在意義を見出して、確かに自分はこの世界に存在してもいいんだと、そう自己存在を転化している部分があるのだろう。
停滞感に苛まれて、悶々としていた時期と比べると、今は格段に私の幸福度は高いと感じる。
私は1人ではなくなった。
妻は自立した人間ではあるけれど、私のことを求めてくれている。
そして、私も同じく、妻のことを心から尊敬して、その体、だけではなく心を求めている。
私たちの人生が重なってから、まだ時は浅いけれど、今のところは、お互いがお互いのことを尊重しながら、歩みを進むことができている。
今は「大事な時期」だ。
始まりの時点で、2人の進む方向が少しでもずれていると、時を重ねるに従って、そのずれは大きなものとして顕在化する。
些細なことはお互いが好きにすればいいけれど、
夫婦として目指すべきもの、
大枠の部分のずれは、極力無くした上で歩みを進めたい。
私たちの相性は、奇跡的と言っていいくらいに良い。
まるで、お互いがお互いと結ばれるために、それまでの歩みを進めてきたように、同じ価値観を共有している。
強弱のグラデーションに違いはあれど、私たちの価値観をグラフにした時に描く波形は、概ね一致するのだ。
私は妻と出会うことができてよかった。
そう思い続けることが、夫婦円満の秘訣だと感じる。
あまりにも忙しい今だからこそ、
妻の要望で新たなタスクを増やされたとしても、心の中はともかくとして、笑顔で「それ良いね」と答える良い訓練となる。
こだわる場所には、男女差がある。
「育ってきた環境が違うから、好き嫌いは否めない」のだ。
夏がダメだったり、セロリが好きだったりする。
「好き」
心がささくれだった時には、そんな高校生みたいな一言が、意外と効果的だったりもする。
魔法の言葉として活用できそうだ。
私は妻との生活に波風を立たせないことを、これから先の新たなミッションとしなければならないのか。
それとも、妻との生活に心から幸せを感じながら、共に歩みを進めていくのか。
両者は表面的には同じようで大きく違う。
心まで変えることはできない。
それならば、自己暗示でもいいから、「私は妻と出会えてよかった」とアウトプットし続けて、「好き」という言葉を素直に、妻に対して伝え続けるべきなのだろう。
幸福度なんてものは、つまるところ「思い込み」による効果が大きいのだ。
私は幸せでいたい。
だから私に対して、おまじないをかけ続ける。
魔法が解けてしまわないように、気をつけなければならないな。
私は、妻のことが好きだ。
心から、結ばれることができてよかったと思う。
表題とは、だいぶ結論がずれたが悪しからず。