映画『星の子』の完成イベントで、
芦田愛菜さんが「信じる」について問われて、
その回答が秀逸だった。
「裏切られたって言う人がいるけれど、
それは相手の見えなかったところが見えただけ、
それも含めて相手なんだって思って受け止める、
そんな揺るがない自分がいるってことが『信じる』ってことだと思う」
続けて、
「揺るがない軸を持つことは難しい。
だから人は『信じる』と口にして理想にすがりたがる」
16歳でこんなことが言えるのか。
素直に感嘆した。
もはや「愛菜ちゃん」ではない。
「芦田愛菜さん」だ。
「人生を一度やり直している」
「本当は見た目の若すぎるおばあさんなんじゃないか」
「異世界から転生しているんじゃないか」
そう揶揄されるのも納得だ。
『星の子』
原作は今村夏子さんの小説だ。
私も半年ほど前に読んだ。
婚活で出会った女性とのデートで寄った本屋、
その最中に購入した本だ。
詳しくは控えるが、
内容はかなりぶっ飛んでいるけれど、
妙にしっくりくる設定だ。
「幸せは人が決めるものではない」
そんなテーマの作品だ。
西加奈子さんの『サラバ』
どことなくテーマが似ている。
「自分になる」
幼少期をさかのぼり、
その葛藤を鮮やかに濃淡使い分けて描いている。
そんな作品だ。
話を戻そう。
「信じる」ってこと、
私にとっては「人を道具として見ない」ということだろうか。
「使い捨て」ではない。
「誠意をもって接する」ということ、
その接し方が「信じる」ってことだと思う。
だけれども、
相手が私のことを「道具」だと思っていれば、
「裏切られる」ことになる。
その時に「芦田愛菜さん」論だ。
「相手の見えなかったところが見えただけ、
それも含めて相手なんだって受け止める」
相手は「脆く不完全で血の通った人間」
「生身の弱い人間」なのだ。
私の「人を道具として見ない」論につながる。
誰かに「裏切られた」ところで、
その人との今後はともかくとして、
我々は「人を信じること」を辞めるわけにはいかないのだ。
思いもよらず、
自分が誰かを「裏切っている」こともある。
「期待を」という意味では尚更あることだろう。
人は誰かに期待し、誰かから期待され、
それを裏切り、裏切られる。
「裏切られた」と嘆いたところで、
何の解決にもならないのだ。
それでも「信じる」ということ、
「信じ続ける」ということ、
それは他の誰でもない自分自身の問題だ。
おそらく芦田愛菜さんも、
そういうことが言いたかったのではないか。
「ドキッ」としてしまう。
運命を感じてしまうな。
もしかしたら、
私の運命の人は芦田愛菜さんか。
いや、待て、
年齢的に犯罪だ。
人生はいつだってすれ違い。
「いつもちょっとだけ間に合わない」のだ。
冗談なので悪しからず、
警察への通報は勘弁してほしい。