「そこに愛はあるんか?」
大地真央さんにそう問われたときに、
心から「あります」と言われる結婚、
全体の何割くらいがそのような結婚なのだろう。
年をとればとるほどに、
「結婚」はリスクヘッジになっていく。
条件で選んで選ばれる。
経済的に苦しいから、
子供が欲しいから、
同居人として許容範囲内だから、
社会的なステータスを得たいから、
様々な思惑が入り混じる。
「偽装結婚」
ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』
その中に登場して脚光を浴びた。
もしかしたら世の中の多くの結婚が、
実は「偽装結婚」なんじゃないのかな。
揺れる乙女心。
くすぐられる男心。
そんな駆け引きの末に、
相手のことを好きでたまらなくなる。
そういうのは20代前半までだ。
多くの人がそういうものを求めて彷徨った挙句に、
大多数は結ばれず、
年を経るとともに妥協点はどんどん下がっていき、
「縁」という言葉を巧みに利用して、
「落としどころ」に落ち着くのだ。
「この人を離しちゃいけない」と思った。
そういう話はよく聞くけれど、
「この人じゃないといけない」と思った。
そういう話は私の周りでは聞かない。
似ているようで大きく違う言葉、
前者の言葉は「条件」にかかるのだ。
結局は「愛」だの「恋」だのってものは、
「生活の知恵」なのかな。
「種の保存」を目的として、
脳から発せられる指令、
高尚なものでも何でもない。
ただ一つ確かな愛情があるとするならば、
それは「自己愛」だ。
いくら自分を嫌いになろうとしたって、
結局どこか自分の人生に期待をしているのだ。
「自分は幸せになれるはずだ」って、
「自分は報われるはずだ」って、
それが「自己愛」ってやつ、
「愛」なんてものが信じられないのであれば、
まっすぐ歪まないように、
まずは「自己愛」それを育ててやればいい。
「まっすぐな自己愛」
おそらくその先にしか、
「まっすぐな他者愛」なんてものは、
生まれるはずはないのだ。
自分が好きではない自分のことを、
好きになってくれた人を愛するためには、
自分を好きになるしかない。
自分は誰よりも「自分の努力」を知っている。
それと同時に「周りから見た自分」を知らない。
森山直太朗『生きとし生ける物へ』
「僕は君が思うような人間じゃない。
そうさそんな人間じゃない」
表には出さない。
そんな自分の醜いところを知っている。
だけれども当たり前のようにしている、
人に対する優しさには気がつかない。
自分のことを知った気になるということは、
自分を諦めるということ、
「結婚」ってものはさ。
きっと一番近くで、同じ目線で、
自分のことを見てくれる人、
お互いがそういう人になるってこと、
他人同士から対等な家族になる。
それができていれば、
きっかけなんてものはなんでも良いのかな。
夫婦って関係は、
なんとも不思議なものだ。