声の大きい人の圧力に屈して意見を言わなかったり、
軋轢を生むこと自体を億劫に思い意見を言わなかったり、
はたまた、「意思表示したところで何も変わらない」と、
厭世的になって意見を言わなかったり、
沈黙する多数派、
特に日本人はこの傾向が強いのだろう。
だから「声の大きいだけの人」が力を持つし、
組織の改革は進まない。
「みんなこう思っているのに」って、
そうやって嘆くばかり、
「声にしない」から変わらないのだ。
そりゃ、反論されることもある。
険悪になることもある。
だけれどもその過程を経ないとさ。
「理想」ってやつには近づかないんじゃないかな。
「多数派」の陰に隠れて、
「おかしいこと」を平気で見過ごすような人生、
それが「大人」だなんて自分に言い聞かせていても、
本当は気が付いているんでしょ?
「自分の人生を生きていない」ってことに、
「立場」を言い訳にしないでさ。
「環境」を言い訳にしないでさ。
「意見」があるならば堂々と言えばいい。
返り討ちに合ったのならば、
自分が「正しくなかった」
もしくは「力が足りなかった」ということ、
それが分かるだけでも収穫なんじゃないのかな。
だけれども、
気をつけなければならない。
何のために「意見を言う」のか。
それを履き違えないこと、
「自分の正しさを証明するため」ではない。
「嫌いなあいつの鼻を明かすため」でもない。
「組織を道徳的かつ、より良い方向に導くため」だ。
道徳的な「軸」を持っていなければ、
タチの悪い「モンスター」や「クレーマー」
「クラッシャー」であり「時間泥棒」だ。
「目的」をどこに置くか、
それが大事なんじゃないかな。
多くの場合で感情的になって良いことはないのはさ。
「自分の正しさを証明するため」に躍起になるから、
人は「居場所を失うこと」を恐れて、
「立場を守るため」に感情的になる。
だからその状態では「周りを見渡す余裕がない」のだ。
だから独善的になり、
周りのことを顧みない。
結果として良いことはない。
私の悪いところは、
「独善的な意見に対して必要以上に排他的」なところだ。
自分よりも立場が上の人間の独善さ対しては尚更だ。
「幼稚なんだな」くらいで笑い過ごせばいいものを、
「必要以上に噛みついてしまう」
何ともバランスが難しい。
私は自分のことをコントロールしたがりすぎているのかもしれない。
だから「時間泥棒」に遭遇するとイライラしてしまう。
だけれどもさ。
そんな些細な時間を捻出するために神経すり減らすよりも、
その状況すらも「経験」だと楽しめるようになりたい。
コントロールしようとするあまりイライラしていては、
結局コントロールできてなどいないのだ。
だから、
「普通」にもこだわり過ぎないし、
「理想」にもこだわり過ぎない。
「道徳」という名のスパイスで味付けしながら、
「意見」というものを調理して、
「さあ召し上がれ」と提供する。
特に「声を挙げる」ときにはさ。
そんな余裕が必要なのかな。