1999年に公開された映画『マトリックス』
その映像美と世界観で一世を風靡した作品だ。
続編も大ヒットし『アニマトリックス』というタイトルでアニメ化までした。
「トリニティ頼む!」と叫んだあとのイナバウワーは、
誰もが一度はマネをしては腰を痛めて後悔したことだろう。
当時、確か中学生の私は、
なけなしのお小遣いを片手に、
「TSUTAYA」でDVDを借りようと、
ワクワクしながら自転車を飛ばして向かった。
レンタルコーナーに駆け込むが、
全て借りられていて愕然としたことを覚えている。
その後、無事にありつくと、
作品の世界観に圧倒された。
機械に支配された世界、
そこで人間は養分として飼育されている。
人が認識している世界は全てバーチャルリアリティ、
実際はゆりかごの中で管をつながれて眠っているだけなのだ。
その世界の中で機械に戦いを挑むレジスタンス、
キアヌ・リーブス演じる主人公のネオは、
仮想世界から抜け出すとレジスタンスと行動を共にして、
戦闘訓練を積み、人類の「救世主」として目覚めていく。
そんなあらすじだったと記憶している。
戦闘訓練のシーンがまた秀逸で、
格闘ゲームのように現実の人間が動く様には驚いた。
今では当たり前のように使われるCGだが、
当時としてはおそらく画期的だったのだろう。
私にとって人生に大きく影響を受けた作品の一つ、
思い返してみると、そう言っても過言ではない。
さて「マトリックス」の感想だけで記事を1つ書けてしまいそうだが、
表題に言及しよう。
数学者デカルトは哲学における絶対的なものを模索して、
あらゆるものを否定してみた。
そしてその否定した先に在るもの、
それは「それを否定している『自意識』の存在である」
そう結論付けたデカルトは、
「我思う故に我在り」という言葉を残したようだ。
当時の私は「マトリックス」の世界観によって、
「「我思う故に我在り」が否定された!」って、
そんなことを嬉々として友人に語っていた記憶がある。
ふとそんなことを思い出した。
しかし、よくよく考えてみると、
「仮想空間」で生きていたとしても、
「自意識」の存在は否定されるものではない。
現実には体を動かしておらず、
全て与えられた世界だけれども、
その「仮想空間」の中で、
人は物事を考えながら生きている。
そう考えると「自意識」は確かに存在するのだ。
全てが「偽り」だったとしても、
人は「偽り」の中で「偽り」を自認することなく生き続ける。
だけれども、
そう考えると「偽り」によって作り出された「自意識」
それは「存在する」と言えるのだろうか。
なんとも難しい問題だ。
感覚器官としての「自意識」は確かに存在するけれど、
その「自意識」の内容は「偽り」であり、
「錯覚」なのかもしれない。
ここに結論を出すのであれば、
例え、すべてが偽りの「仮想世界」で生きていたとしても、
感覚器官としての「自意識」の存在は否定できない。
そういうことになるだろうか。
20年越しの命題に決着をつけた形、
今更になって「マトリックス」を思い出す私、
このタイミングにも何か意味があるのだろうか。
今の世の中はオンライン化が進んでさ。
「仮想世界」に片足突っ込んでいるのかな。
みんな「あつ森」なんかをやっているし、
「異世界転生もの」は大流行、
SNSやソシャゲ、このブログだって仮想世界だ。
そうやって人生の半分くらいを、
すでに「仮想世界」にもっていかれているんじゃないのかな。
「シンギュラリティ」を迎えて、
AIがAIを作るようになったら、
世界は加速度的に進化していく。
そんな予測がある。
人間の存在そのものが脅かされているのかもしれない。
世界はどこへ向かっているのだろう。
『マトリックス』の世界に近しい未来が、
もしかしたらすぐそこまで来ているのかもしれない。