「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

映画「マトリックス」の世界観によって「我思う故に我在り」は否定されるのか

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1999年に公開された映画『マトリックス

その映像美と世界観で一世を風靡した作品だ。


続編も大ヒットし『アニマトリックス』というタイトルでアニメ化までした。

 

「トリニティ頼む!」と叫んだあとのイナバウワーは、

誰もが一度はマネをしては腰を痛めて後悔したことだろう。


当時、確か中学生の私は、

なけなしのお小遣いを片手に、

TSUTAYA」でDVDを借りようと、

ワクワクしながら自転車を飛ばして向かった。

 

レンタルコーナーに駆け込むが、

全て借りられていて愕然としたことを覚えている。


その後、無事にありつくと、

作品の世界観に圧倒された。


機械に支配された世界、

そこで人間は養分として飼育されている。

人が認識している世界は全てバーチャルリアリティ

実際はゆりかごの中で管をつながれて眠っているだけなのだ。


その世界の中で機械に戦いを挑むレジスタンス、

キアヌ・リーブス演じる主人公のネオは、

仮想世界から抜け出すとレジスタンスと行動を共にして、

戦闘訓練を積み、人類の「救世主」として目覚めていく。


そんなあらすじだったと記憶している。


戦闘訓練のシーンがまた秀逸で、

格闘ゲームのように現実の人間が動く様には驚いた。

今では当たり前のように使われるCGだが、

当時としてはおそらく画期的だったのだろう。


私にとって人生に大きく影響を受けた作品の一つ、

思い返してみると、そう言っても過言ではない。


さて「マトリックス」の感想だけで記事を1つ書けてしまいそうだが、

表題に言及しよう。


数学者デカルトは哲学における絶対的なものを模索して、

あらゆるものを否定してみた。


そしてその否定した先に在るもの、

それは「それを否定している『自意識』の存在である」


そう結論付けたデカルトは、

「我思う故に我在り」という言葉を残したようだ。

 

当時の私は「マトリックス」の世界観によって、

「「我思う故に我在り」が否定された!」って、

そんなことを嬉々として友人に語っていた記憶がある。


ふとそんなことを思い出した。


しかし、よくよく考えてみると、

「仮想空間」で生きていたとしても、

「自意識」の存在は否定されるものではない。


現実には体を動かしておらず、

全て与えられた世界だけれども、

その「仮想空間」の中で、

人は物事を考えながら生きている。

そう考えると「自意識」は確かに存在するのだ。


全てが「偽り」だったとしても、

人は「偽り」の中で「偽り」を自認することなく生き続ける。


だけれども、

そう考えると「偽り」によって作り出された「自意識」

それは「存在する」と言えるのだろうか。


なんとも難しい問題だ。


感覚器官としての「自意識」は確かに存在するけれど、

その「自意識」の内容は「偽り」であり、

「錯覚」なのかもしれない。


ここに結論を出すのであれば、

例え、すべてが偽りの「仮想世界」で生きていたとしても、

感覚器官としての「自意識」の存在は否定できない。

そういうことになるだろうか。


20年越しの命題に決着をつけた形、

今更になって「マトリックス」を思い出す私、

このタイミングにも何か意味があるのだろうか。


今の世の中はオンライン化が進んでさ。

「仮想世界」に片足突っ込んでいるのかな。


みんな「あつ森」なんかをやっているし、

異世界転生もの」は大流行、

SNSやソシャゲ、このブログだって仮想世界だ。


そうやって人生の半分くらいを、

すでに「仮想世界」にもっていかれているんじゃないのかな。


「シンギュラリティ」を迎えて、

AIがAIを作るようになったら、

世界は加速度的に進化していく。

そんな予測がある。


テクノロジーの発達によって、

人間の存在そのものが脅かされているのかもしれない。


世界はどこへ向かっているのだろう。


マトリックス』の世界に近しい未来が、

もしかしたらすぐそこまで来ているのかもしれない。